ルドルフ・シュタイナーの社会論について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “高度な文明を築くために不可欠なものは、いつにかかってその文明をつくり担う人間自身の深い精神性、高度な倫理的世界観である。軍事力でもって、一時的に他を征服しても、それが長続きしないことは、こうして地中海の歴史を見ただけでもあきらかである。

 そして文明は、常に若い力を注ぎ込まないかぎり、老化し、枯死してゆく。地中海沿岸のすべてを支配した経済力のうえに、あれほど高度な文明、文化を打ち立てて、永遠をうたわれたローマでさえも、異民族や他宗教によってではなく、自らの責任において、内側から崩壊していったのである。

 成熟文化特有の堕落、退廃、放埓、――それは、私たち日本の、そして現代文明をリードしているといわれている先進資本主義国すべての、いまこの時点の問題にほかならない。

 いままさに形骸とならん、いままさに死なんとする文明の不断の再生こそが、生きた文明、生きた伝統であるならば、いかにしていまこの現代の文明を、そして地球文明を再生し続けるか。そこに若い、清新な力を、いかにして不断に注ぎ込み続けるか、そしてそのことを成すために、いかにして深い精神性を保ち、深い精神生活を営み、高い倫理的世界観を獲得するか。

 急がねばならない課題である。”(松澤)(P229~P230)

 

松澤 『民族魂の使命』の抄訳は、旧ソ連邦や東欧で民族問題が激発する以前、湾岸戦争後にアメリカ合衆国が、そのかかえている人種問題の深刻さ故に「ディスユナイテッド・ネーション」と呼ばれるようになる前から、読んでいました。そうしたところに、NIES、ASEANが高度成長経済へと離陸し、東欧の社会主義国がバタバタと倒れてコメコン体制が崩壊し、ソ連邦がなくなって、ヤルタ・ポツダム体制=東西冷戦構造がはっきりと終結するという事態が起こりました。アジアにおいても、中国の改革。開放がどんどん進んでいって、タイのバーツ経済圏がインドシナ半島を吞み込むというような動きとなって、『アジアの社会主義』がほとんど溶解してしまった。

 これはまさしく、シュタイナーが社会を霊視して得ていたイメージが、ほとんどそっくりそのままリアライズされた世界です。しかもシュタイナーは、そうした「社会の未来」を預言的に語ったのみならず、なぜそのようなことになるのかということを、ヘーゲル=マルクス哲学を検討するなかで明らかにしていたわけです(そのことは本書第二部で述べました)。

 ですから、八九年以降、私はドキドキしっぱなしであったわけです。しかしながら、じつに奇妙なことに、この間、シュタイナーの社会論については、誰もコメントしませんでした。しかも、人類が近代において、民族国家を超えて形成してきたとされている連邦制、共和制を含む「国民国家」という概念と実体が、根底から揺らいでいるのに、シュタイナーの「民族魂の使命」をいかに捉えるかという論も、まったく出てこない。

 最初は漠然と「なぜなんだろう?」と思っていたのですが、あるとき、ふと気がついたんです。オカルティズムのあまりの凄さに目を奪われて、シュタイナーの社会論が極端になおざりにされているのではないかと。

 そうしたところに、今度ようやく西川さんが『民族魂の使命』を全訳されました。たいへん喜ばしいことなのですが、もっと早く出るべきでしたね。一部で『民族魂の使命』を基礎に踏まえたとされている理論展開がなされていたわけですから。”(P235~P236)

 

松澤 現代や国内の問題にアプローチする必要はあると思います。「地球にやさしい日本」という宮沢首相の演説がありましたが、ガイア思想においてラブロックなどがいったのは、人間は地球上に生じたかびみたいなものだから、核戦争をしても滅びるのは人類であって、地球生命圏=ガイアは生命体としていろいろな爆発を乗り越えてきているのだし、それ自体は存続するだろう、ということですね。オゾンホールだって南極だけでなく北海道のうえにもあるのだそうですし、環境破壊はそこまで進行していますから、本当に真剣にエコロジー運動に取り組まないといけないはずですね。

 それに、教育に眼を転じますと、義務教育にほとんど公的なものしかないという日本の構造は、とても怖いと思います。登校拒否、いじめなどの問題は深刻で、公教育から落ちこぼれる生徒は増えるばかりです。そういう生徒の行き場がなくなっています。日本民族の根幹が腐り始めているのです。エコロジーにしても教育にしてもそんなにひどい状況なのだから、本当はここでものすごくがんばらなければいけないはずなのに、どこかおかしい、問題に対して発言している人は、問題を解決する人ではないのかもしれない。

 今回シュタイナーを読み直して驚いたのは、二十世紀のはじめにいち早く、革命などをしてもだめだ、と明確に指摘している点ですね。その意味でもシュタイナーの「社会有機体三分節化論」が、今後大きく取り上げられ、参考にされねばならないはずなんです。それだけ重大な指摘だし、現実はシュタイナーのいったとおりになっているのですから、謙虚に受け止めねばなりません。ところが一九八五年のプラザ合意による多角的為替調整以降のアジアにおける日本企業の行動を、「日本帝国主義のアジア侵略」などといっている人智学の指導者がいるんですね。これはあまりにも粗雑な認識です。

西川 マルクス主義が過ぎ去り、かといって物質主義的な資本主義では人間のエゴイズムを助長するだけという現状において、シュタイナーの社会論に本気で取り組むべきだと思っています。教育問題と社会問題、この二つが人智学にとっても緊急の課題でしょう。昨今の日本の政治にはほんとうに失望しますが、政教分離だけでなく政経分離がどうしても必要なことを訴えるのをあきらめるべきではないでしょう。シュタイナーの社会論、経済論は全部で十六冊あるのですけれど、そこには閉塞状態のいまの社会を打破するヒントがたくさんあるはずです。

 日本民族のことを考えるには、記紀をどう読むかという大問題があるのですが、日本の民族霊についても奈良・平安から鎌倉・室町・江戸・明治・戦前・戦後という変遷のなかで慎重に見ていく必要があるはずです。

松澤 天皇霊をシュタイナーの民族霊に直接的に結び付ける議論などもありましたね。

澁澤 「天皇霊=大天使」説にせよ、「南方の流れ」説にせよきわめて図式的で、シュタイナーの論説の精妙さとは対極な印象を受けますね。思想にとって表現形式つまり口調や文体は、単に中身を盛る器ではなく、本質そのものだという思いを新たにさせられました。

西川 日本の民族霊に関しては、ほんとうに霊視的意識を深めていけば、もっとコズミックな存在の姿が現われてくるのではないでしょうか。その存在と天皇とのかかわりということなら、十分大事なテーマになってきます。日本文化史、日本精神史を瞑想的に研究していくと、時代々々にどのような神仏が日本人を導いてきたか、その際、天皇はどのような霊的機能を果たしていたかが見えてくると思います。

 オカルト雑誌を見ていて、ときどき不安になることがあるんです。シュタイナーがいってもいないことを、シュタイナーはこういったと書いてあるのを、いくつも読みました。そういう偽りがかなり流布しているようにも聞きます。シュタイナーのことを語る人は、自分独自の見解を語るとき、シュタイナーはこう述べているけれど、自分はこう考えているというふうに、誤解を招かない形で語るべきだと思います。神智学者ブラバツキーは最初、ローゼンクロイツの精神を継承する方向で活動していたのですが、それを妨害しようとする霊的―オカルト的集団が彼女に影響を与えて、本来の道からそらせました。この霊的な力を軽視すべきではありません。いずれにしても、教祖に接することによって情緒的な喜悦感に浸るというのではなく、健全な理性と思考力に深い霊感を結びつけるという形を大切にしていれば、混迷のなかにある精神世界に清浄な光を発することが可能だと思います。

澁澤 表面的、現象的には私たちは混乱や低迷、ニヒリズムやエゴイズムの危機に絶えずさらされているのですが、それでもシュタイナーの影響力はしだいに深く、重く、強くなっていくと思います。『民族魂の使命』は、民族や国家、それに組織の指導者などに盲従することを個々人が乗り越えて生きることの深い意味を説き明かしているのだと思います。どうもありがとうございました。”(P241~P244)

 

(松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房))

 

*ルドルフ・シュタイナーは1925年に亡くなっており(ナチスによって毒を盛られたとも言われています)、「民族魂の使命」の日本語版や、この「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」が出版されたのは、1992年でしたが、このところのEUの抱える移民問題やアメリカの人種問題などのニュースを見ると、シュタイナーの警告は無視され(というか、元から関心を持たれていないのでほとんど誰も知らず)、事態ははるかに悪化しているようです。出口聖師も戦前から世界各国各地域の国魂(くにたま)を重視せねばならないことを説かれており、1996年に、世界を「文明」によって区分するサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」が出版され話題になった時は、ようやく時代が出口聖師やシュタイナーに追いついてきたかのようにも思いましたが、結局世界は彼らがもたらしてくれたものを活かすことができませんでした。最近は、中国共産党によるウイグル人への強制隔離政策、強制不妊手術などのジェノサイドが、世界各国で報道され大問題となっていますが、どういうわけか日本政府は全く声を挙げようとしませし、日本のマスコミもほとんど報道しません。森喜朗氏の失言を糾弾していた人達は、なぜウイグル人女性への性暴力には無関心なのでしょうか。「基本的人権」とは普遍的なもので、どの国のいかなる法律よりも上位にあるものであり、さらに中華人民共和国は国連人権理事会の理事国の一つであって、よって人権侵害に対する非難は内政干渉には当たりません。かつて安倍前首相は、2008年(当時は首相ではありませんでしたが)に、来日した胡錦濤国家主席に対して、中国で不当に拘束され獄中生活を送っていたウイグル人学生の問題を直接提起され、そのおかげでその方が解放されたということがありましたが、そのときもほとんどのマスコミはその事実を報道しませんでした。今はウイグル問題(チベット問題なども)は、はるかに深刻な事態となっているのに、日本政府、日本民族が、この問題に関しこのまま沈黙して放置し続けるとしたら、たとえ直接手を下していないにせよ、日本もまた間接的な加害者としてこのカルマを背負うことになってしまうでしょう。

・スワミ・アドブッターナンダ(聖者ラーマ・クリシュナの高弟)

 

 “あるとき、ラトゥ・マハラージ(注:スワミ・アドブッターナンダのこと)は男性信者の一団に語った。「女性を虐待する男性がいるが、彼女らに対して決して手を上げるべきではない。彼女らがどれほど耐え忍んでいるか君たちは知らない―― 彼女らは忍耐そのものなのだ。女性を虐待したら、彼女らはそれをどこに転じればよいだろうか?彼女らは母なる女神のあらわれなのだ。『母』がさげすまれれば、主はお怒りになる。だから、君たちの安寧は彼女らを幸福にすることにあるのだ。シーターの涙がラーヴァナの民を滅ぼしたように、女性の涙は君たちを滅ぼすだろう」”

 

(スワミ・チェタナーナンダ「スワミ・アドブッターナンダ 教えと回想」日本ヴェーダーンタ協会より)

 

*シュタイナーは、二十世紀のはじめにいち早く、革命などをしてもだめだ、と明確に指摘し、グルジェフやウスペンスキ―も、暴力革命は必ず望む結果とは正反対の結果をもたらすという、ある種の法則が存在することを語っています。出口聖師も、マルクスは白アリなり、とマルクス主義を否定されると共に、右翼思想家である北一輝の急進的な思想についても、かえって国をつぶすことになると言って反対されました。にもかかわらず。未だにこのことがわからない人達が多数おられるのは残念です。

 

*天皇制の問題についても、単に男系か女系かという議論だけでなく、「民族霊」、「天皇霊」といった霊的な視点からも考える必要があると思います。そもそも天皇とは宗教的権威でもあり、霊的な次元に意識が向けられることなく、物質的な次元でのみ議論されることは明らかに間違っています。これまでずっと男系で続いてきたのは、単に社会制度や遺伝子的な問題だけでなく、何らかの霊的な必然性があったのではないかと思います。

 

*マザー・テレサは、「私は反戦運動には参加しません。平和運動であれば参加します。反戦運動には、ある特定の人々に対する怒りや敵意があります。結局はそういったものが戦争を引き起こすのです」と語られています。私は、最近の政治問題や環境問題に関わる様々な市民団体の活動(SEALDSやグレタさんなど)には、このマザー・テレサが否定された反戦運動と共通するものを感じます。出口聖師は、「霊界から見ると罵詈讒謗を云ふ人間は人間の風をして居らぬ」と言われましたが、まさにその通りです。

 

*シュタイナーについては、日本ではシュタイナー教育が有名ですが、彼は、「唯物論者を教師にしてはならない」と言っています。そして、出口聖師は政治家の条件として、「まず、神様を信じていること」と言われ、エドガー・ケイシーは、二十世紀に入って自然災害や戦争が急増したことについて、「人々が神を忘れてしまったからだ」と述べています。私自身に偉そうなことを言う資格はないのですが、彼ら霊的に偉大な方々の教えに従えば、現在人類が直面している数多くの問題については、結局、神様に立ち返ること以外に解決策はありません。人間を含むすべてのものが神の顕現であることが少しでも自覚できたなら、環境問題などは起こりませんし、戦争も犯罪も起こり得ないのです。

 

*西川劉範先生は、「オカルト雑誌を見ていて、ときどき不安になることがあるんです。シュタイナーがいってもいないことを、シュタイナーはこういったと書いてあるのを、いくつも読みました。そういう偽りがかなり流布しているようにも聞きます。」と述べておられますが、これは出口王仁三郎聖師についても同じことが言えます。オカルト雑誌で「大本裏神業」なるものの特集が組まれたりしておりますが、私はまったく信じていません。大正のころから、邪霊が霊能のある信徒に懸かり、「大本神諭」を模した別の神示を書かせるということが起こっており、また勝手に「聖師さまから秘密のご用を命じられた」とか主張する者がいたため、出口聖師ご自身が、皇道大本の機関誌に、そのような連中を相手にせぬよう呼びかける記事を発表され、さらに「霊界物語」の中でも偽物の神示に注意すべきことを書いておられます。邪霊であっても、霊的な不思議な現象を引き起こすことができ、うわべはよい事を語るので、そのために多くの信者が惑わされてしまったのですが、聖書に「蛇のように聡(さと)く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ伝10:16)とあるように、出口聖師も「最後のときは悪魔も悪あがきをするもんじゃ、それに惑わされる者は餌食じゃ」「知らず知らずと言いながら、泥に落つれば泥まぶれとなる」と言われています。何もかも無批判に信じてしまってはなりません。

 

・エドガー・ケイシー・リーディングより

 

心霊力は多くの側面、多くの性質をもって、物質界に表されます。身の程をわきまえず、地上の進化の一部に加わろうとするものたちが、ベールの向こうから働きかけています。それが混乱と争いをおこすのです。(11352)”

 

(林陽編訳「エドガー・ケイシー名言集 知恵の宝庫」(中央アート出版社)より)