「禊行」の実践 〔麦飯男爵 高木兼寛〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・高木兼寛 (東京慈恵会医科大学創設者)

 

 “兼寛が望んだ医師とは、当時医療界を風靡していた研究至上主義とは無縁で、医学的力量を十分持ちながら、しかも患者と同じ平面で話ができる高邁な人物であった。患者はつねに「権威者であり、しかも隣人である」医師を求めているからである。言うなれば、医学・医術といった必要条件を持ちながら、同時に医の心、病者の痛みがわかる心を持った医師を望んだのである。他の医学校では、この必要条件である医学・医術の教育だけでこと足れりとしている風潮があったが、兼寛は、何とかしてこの医の心までも教育しようとしたのである。これが兼寛のつくった医学校の特徴といえるものであった。”(P151~P152)

 

 “兼寛が学生に浸透させようとしていたものに、宗教の世界があった。留学中の経験から、帰国したころの彼は、信仰心が社会生活においていかに大切であるかを強調し、信仰心のない者をいつも戒めていた。医学校の入学試験にも、品性試験なるものを設け、志願者を呼び出していちいち信仰の有無を問い、みずから無宗教と名乗るものは惜しげもなく落第させたという。これでは話が少し乱暴すぎるが、明治三〇年ごろになると彼自身、信仰心を、社会との関係においてよりも、むしろ自分の心の問題としてとらえるようになり、それとともに、学生の教育においてよりも心の問題として考え直している。

 かつて病に苦しみ、死別に悲しんだことのある人は、他人の病苦をいたわり、死をいたむことができるものである。それは他人のなかに自分を置くことができるからである。また、実際に経験しなくても、深い教養のある人(兼寛のいう「高尚な人」)は、他人の苦しみを自分のことのように感じるものである。兼寛は、宗教の世界を知らせることが、その深い教養にいたる近道であるように思った。宗教はすべてこのように説くからである。”(P164)

 

 “兼寛の晩年は、啓蒙者としての面と同時に、求道者としての面が強く打ち出された時期である。青年期迄の彼は、とくに宗教に関心が強かったわけではなく、また留学したときにも、社会生活をする人間として信仰心がいかにたいせつであるかは理解したものの、まだ自分の問題として、宗教や信仰について考えたことはなかった。自分の心の問題として信仰を考えはじめたのは、五〇年を半ばすぎてからであった。彼は、戊辰の役以来、多くの病者、病苦に呻吟し、死を恐怖する病者と接してきたし、また多くの肉親、師、友人たちと死別してきた。そのような経験から彼は、医学の対象である病気は普遍的であるが、医師が対象とする病人は個別的であり、しかも一人一人の命は全宇宙の命につながる尊い存在であることに気がついてきた。またなによりも、彼は老年の域に入り、それまでかくしてきた自分の心の奥底にあるもの、自分の人生の核になっているものを、しっかりと凝視しなければならないと思いはじめていた。彼は急いで仏教に接近していった。

 さいわい、次女寛子の婿の樋口繁次が敬虔な仏教徒であり、仏教理論にも深い理解をもっていた。彼はこの樋口を介して多くの仏教者に接し、教えを受けることになった。北野元峰(永平寺)、佐藤鉄額(青松寺)らのそうそうたる高僧知識ばかりであった(多くは浄土宗、禅宗の僧侶であった)。兼寛は、樋口家、高木家の仏事ばかりでなく、また医学校での仏教研究会(一六五ページ参照)において、これらの高僧知識から多くものを学んだ。

 彼がまず仏教に求めたものは、生老病死をはじめとする人生の苦しみの由来と、それを解決するための方法であった。仏教では、元来人生の苦しみはすべて煩悩に由来するものであり、苦しみ自身には実体がない、したがって仏法によって、苦しみを超えた世界つまり宇宙の生命、静寂の世界に通ずることができると説くのであった。兼寛は、まず念仏によって、ついで坐禅によってその世界に到達しようと努力した。しかし、彼はそのいずれによっても、そのような世界に到達することができなかった。これらの方法では、自分を含めて現実の人間の苦しみは乗り越えがたいのではないかと迷いはじめた。

 そのころ、彼は思いがけない不幸に見舞われた。大正四年、次女寛子が、子供(樋口一茂)を残したまま世を去ったのである。一人娘であっただけに(長女は幼時すでに死別)、兼寛の嘆き、悲しみは想像以上であった。禊の行を知ったのはそのころであった。彼は、指導者川面凡児から話を聞くにつれて、この禊の行こそいままで求めてきた宗教であったと思った。そして、急速にこの宗教にのめり込んでいった。禊の行というのは、絶食に近い粗食をとりながら、冬は海水に、夏は山間の冷水に体を浸しながら、はげしい運動をくり返す行であって、行を進めるにつれて心身の統一が可能となり、神我一体の悟りの境地に到達できるという神道の一つであった(この悟りの境地とは、先の宇宙の生命ないし静寂の世界に通ずる境地と同じ意であろう)。

 兼寛は、この行にみずからを投げ入れることによって、心身の統一、神我一体の悟りの境地に到達することができた。「禊は入りやすく、禅を包み、禅以上の禅である」と述べている。彼は自分の体験をまとめて「禊に関する神事の概要」と題する一書を刊行した。その骨子は次のようなものである。

 「まず、われわれの身体は病気を防ぐために、身体内に異物を入れないようにしている。またもし異物が入ったり、あるいは体内に生じた場合には、薬物によって極力これを排除し、全身を清浄にしてもって疾病の治癒を期待するものである。ところが禊においてもまったく同じことを期待しているのである。純全淡白な清浄無毒な食品を少量とって、余の異物の体内に侵入するのを防ぎ、同時にはげしい全身運動をすることによって、排泄作用を促進し、体内の異物を除去することによって全身を清浄ならしめ、よって健康の増進をはかるものである。さらに、心身相関の当然の理法にしたがって、身体内部の異常がそれぞれの形式で、精神内部の邪念妄想を催起することは明らかであるから、身体の清浄は当然精神の清浄を生むのである。清浄な精神のみが神と一体になりうることはいうまでもない。また、精神の清浄が身体を健康に維持することはまた理の当然である」

 身体と精神の統一を強調する今日の心身医学を連想させるものである。

 禊の行に賭ける兼寛の執念は、狂気染みたものでさえあった。当時、医学校の教授になっていた永山武美(たけよし)の随想にこんなのがある。「あるとき、高木校長夫人から『永山さん、高木ももう年ですから、あなたからなんとか禊はやめるように言ってくださいませんか』とのご依頼があり、また実際に校長の尿には多量のたんぱくが出ていたので、『先生の尿にはこれだけたんぱくが出ております。だいじなお身体ですから、禊はおやめになってください』と申し上げると、いきなり、『何を言うか!おれは命を賭してやっているんだ。尿にたんぱくが出たぐらいでやめられると思うのか。引っ込んでおれ!』と怒鳴られた」と。そして後日談として、夫人から「永山さん、高木はとても喜んでおりました。永山はおれの体を心配してやめろと言ってくれた。それがとてもうれしいと言っておりました」というのがある。

 兼寛は、自分でこの禊の行に参加するだけでなく、多くの友人知己にも極力これを推奨した。かつて脚気論争でのライバルであった石黒忠悳(ただのり)なども、禊に参加することをさかんにすすめられて、断るのに閉口したという。

 この禊の行を含めて、彼が宗教に求めた願いは、「宇宙森羅万象からの声(教え)が聴きたい。宇宙からの声をよく了解したい。宇宙からの教えにまじめに従いたい」ということであった。そして、禊の行によって直接、「宇宙の声」を聴くことができたのであるが、さらに彼は、多くの間接的な声も「宇宙の声」として聴いていた。そのなかには、神道もあれば、仏教もあれば、キリスト教も、儒道までも含まれていた。彼によると、その教える宇宙の声はすべて共通で、「キリスト教もお釈迦様も孔子様も皆お友だちで、その趣は同じこと」なのであった。彼にあっては、宇宙にあまねく実在し、唯一なるものの声を聴き、それに従って生きたいというのが最終的なのぞみであった。”(P181~P185)

 

(松田誠「脚気をなくした男 高木兼寛伝」(講談社)より)

 

*東京慈恵会医科大学の創設者であり、「ビタミンの父」、「麦飯男爵」とも呼ばれた高木兼寛先生(1849~1920)は、明治時代に脚気の原因が白米中心の食生活にあることを突きとめ、兵食に麦飯やカレー(帝国海軍カレー)を採用したことで知られています。ここで紹介させていただいたように、ご自身が非常に宗教的な方であっただけでなく、信仰を持っていることを医師の条件とみなし、「医学校の入学試験にも、品性試験なるものを設け、‥‥‥みずから無宗教と名乗るものは惜しげもなく落第させた」ということです。同じように、ルドルフ・シュタイナーは、「唯物論者を教師にしてはならない」と言っており、出口王仁三郎聖師もまた、政治家としての第一の条件として「まず神様を信じていること」を挙げています。よく靖国神社のことが問題になりますが、私は英霊に対し敬意が払われるべきなのは当然ですが、まず主神を第一にするべきだと思っています。日本の国会議員であるにもかかわらず、伊勢神宮に参拝したことの無い者には、議員としての資格はありません。

 

*本文中で紹介されている川面凡児先生とは、長らく失伝していた古流の「禊」を復興させた人物であり、虚空から物質を取り出すなど、凄まじい霊力をもっておられたことでも知られています。戦前は「禊行」は全国各地で行われ、今も川面流禊行を伝える団体はいくつかあるようです。そのうちの一つ、伊勢にある「神道大和教総社・禊之宮」は、直弟子であり伊勢外宮の宮司でもあった巽健翁によって創設された禊道場であり、芥川賞作家、三浦清宏氏の著書「見えない世界と繋がる 我が天人感応」(未来社)の中で詳しく紹介されています。また川面凡児先生について詳しく知りたい方には、金谷真著「川面凡児先生傳」(稜威会)、宮崎貞行著「宇宙の大道を歩む 川面凡児とその時代」(東京図書出版)をお勧めします。ちなみに、川面凡児先生は、近きうちにも遠きのちにも日本が沈没することは断じてないと語られています(ただし、東洋と欧米の幾部分は陥落し、太平洋上に新大陸が出現するのだそうです)。

 

*川面流禊行は、合気道開祖植芝盛平翁によって合気道にも取り入れられています。植芝翁ご自身が、「合気道は禊である」と言っておられるのですが、残念ながら今は、たとえば「天の鳥船行」は「船漕ぎ運動」と言い換えられ、もはや禊としての意義はなく、単なるスポーツになってしまっているようです。

 

*「霊界物語」の中でも、「禊の神事」の大切さについては繰り返し述べられ、また伝染病は悪霊の仕業であるとして、病気が流行った時には必ず禊を実践すべきであることが説かれています。ただ、かつてある信徒が出口聖師に対して「今流行っている禊をしたいのでさせて下さい」と申し上げると、「禊は神様に対して不敬である。禊をするにふさわしい人間がおればやらせる。どこにおるのじゃ!」とかなりの剣幕で叱りつけられたということがあります。罪穢れを清めるのは、あくまでも神様にのみできることであり、自分自身の力ではありません。もし禊行をすることで自動的に罪穢れが無くなる、つまり自力で罪穢れを清めることができると考えておられる方があれば、それは大変な考え違いであり、神様に対して御無礼でしかありません。

 

 “本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるようであるが、戦争と流行性感冒はつきものである。あれは霊の仕業である。近年、満州事変、上海事変などで多くの戦死者を出したが、それに対して、禊(みそぎ)の行事が行われていない。禊の行事の大切なることは霊界物語に詳しく示しておいたが、昔はこの行事が厳格に行われたから、戦争などでたくさんの死者があっても地上波時々に清められて、流行性感冒のごとき惨害からまぬがるることを得たのであるが、今の人たちは霊界のことが一切分からず、禊の行事などのある事をすら知らぬ人たちのみなるがゆえに、邪気充満して地上は曇りに曇り、濁りに濁り、爛(ただ)れに爛れて、眼を開けて見ておられぬ惨状を呈しているのである。気の毒にもこうした事情を知らぬ世間の人々は、医師や薬にのみ重きをおいて、焦心焦慮しているのであるが、霊よりくる病気を体的にのみ解せんとするのは愚である。

 禊の行事の偉大なる効果を知る人は凶事あるごとに常にこれを行うべきである。さすれば一家は常にほがらかでめったに病気などには罹らぬものである。(昭和九年三月)”

 

          (加藤明子編「出口王仁三郎玉言集 玉鏡」より)

 

*出口聖師が、「われはオリオン星座から来たれり」と言っておられたことは良く知られており、それを証しするかのように背中にはオリオン座のかたちに黒子がありました。一方で、川面凡児先生は、自分は前世では昴(スバル:おうし座のプレアデス星団)の紅の星にいた、と語られています。旧約聖書のヨブ記38章31節には「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。」とあり、またエドガー・ケイシーのリーディングでは、オリオンとプレアデスがセットで言及されており、オリオンとプレアデスには何らかのつながりがあるようにも思えます。

 

・エドガー・ケイシー・リーディング

 

 “「……その人はプレアデスとオリオンの恵み深い力と共に、水星、木星、火星の影響を受けて生まれている。頭の良い子であり、何でもすぐに学びとれるが、また誤った方向に導かれ易くなることも時に見られる。そこで今後五年間は、この子に適切な影響を投げかけるような、特に霊的性質にその子を関連付け ることに関して指導と教育を与えるべきとの警告が出されている。火星の力から来る傾向がそこに見られるためであり、これは極めて大切なことになるだろう。

 この子は木星から恵み深い力を受け、ずば抜けた知力を持っているため、正しく指導すれば、物質面でこの子が力を尽くす仕事の分野でかなりの成功を収め、沢山の金銭とこの世の良き物を得られるだろう。もし適切でない繋がりを招く先の要因に流されるままになれば、これが裏目に出るだろう。つまり、極端な人間なのであり、一度短気に火がつくと自分の中でそれが煮えたぎる人間なのである。意志力を損なってはならない。その子を正しく導き方向づけしなさい」(五四五四-三)

 

 プレアデスとオリオンのもたらす力の性質はあまりはっきりと説明されていません。

 プレアデスとオリオンについて触れた箇所はもう一つありますが、これはなおのこと理解しがたい内容です。

 

 「この人は木星、金星、水星、またはオックス・アイデス(訳注:Ox-ides。おうし座とプレアデスを繋げたリーディングの造語と思われる)―― つまりオックス・オリオンの作用を受けたオリオン座におけるプレアデスの相対的力―― の影響を受けて生まれ出た。確かにこれは尋常ではない!」(二八八六-一)”

 

 (ジュリエット・ブルック・バラード「エドガー・ケイシー 大宇宙の神秘」中央アート出版社より)