直日(なおひ) 〔キリスト意識〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・直日(直霊、なおひ)

 

 『次に其の禍(まが)を直さむと為て成りませる神の御名は、神直日神(かむなほひのかみ)、次に大直日神(おほなほひのかみ)、次に伊都能売神(いづのめのかみ)』

 神直日神は宇宙主宰の神の直霊魂(ちょくれいこん)にして、大直日神は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊である。所謂罪科を未萠に防ぐ至霊にして、大祓の祝詞に、之を気吹戸主神と謂(まを)すのである。又八十曲津日神、大曲津日神は、大祓祝詞に、之を瀬織津姫神と謂ひ、伊都能売神を速秋津彦神、速秋津姫神と謂ひ、神素盞嗚神を速佐須良姫神と謂すのである。以上の四柱の神様を総称して祓戸の大神と謂ふのであります。

 即ち伊邪那岐命が黄泉津国の汚穢混濁を払滌せむとして、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊身祓ひの神業を修し玉ひし時に生れませる大神なるは前陳の通りである。

 大曲津日神は、大神の神勅を奉じて邪神を誅征し討伐し玉ふ大首領の任に当る神であつて八十曲津日神を指揮し使役し玉ふ神である。之を現界に移写する時は、大君の勅命を畏みて征途に上る総司令官の役目である。以下の将卒は、即ち八十曲津日神様であります。猶ほ更に直日(直霊)と曲霊(まがひ)について左に大要を示して置きます。

 

   直霊(ちょくれい)

○直日の霊は荒魂(あらみたま)の中にも、和魂(にぎみたま)の中にも、奇魂(くしみたま)の中にも、幸魂(さちみたま)の中にも含有さる。四魂中各自極めて美はしく、至って細しき霊の名称にして、善々美々なるものを謂ふ。

○直霊は過失を未萠に消滅せしむるの能力あり。四魂各自用ゐて直は其中にあり、之れ即ち直霊なり、神典之を神直日大直日と云ふ。始祖の所名なり。

○直霊(なほひ)は平時に現れず、事に当って発動す。

○神直日(かむなほひ)とは、天帝の本霊たる四魂に具有せる直霊魂(ちょくれいこん)を謂ふ。

○大直日(おほなほひ)とは、吾人上帝より賦与せられたる吾魂の中に具有せる直霊魂を謂ふ。

 

         (「霊界物語 第十巻 霊主体従 酉の巻」『言霊解三』より)

 

 

・エドガー・ケイシー

〔キリスト意識〕

 “さらに話を進める前に、ケイシーのリーディングがいう「キリスト意識」について、少し述べておきたい。まず「キリスト意識は天父の霊の普遍的意識である」(五七四九-四)という。これは「イエス意識」と対照をなす。「イエス意識はキリスト意識を肉体に適用したものである」。しかしこのキリスト意識は、いわば胎児の状態で、総ての人間の内に備わっているのだ。これは、人間は神の姿に似せて創られたという概念を説明するときにケイシーが使う別の形式でもある。このキリスト意識は次のように説明される。」それぞれの魂の内にあって、魂と神との一体性を自覚する意識であり、自由意思によって目覚めさせられるのを待っている……」(五七四九-一四。参照 創世記1章27節、ローマ書2章15節)。

 さらにこうある。「自分が成長するというより、自己の中のキリスト意識が磨かれ、非利己的になり、主があなたの中で力を持たれるようになる。そして主なるキリストが、あなたを導き、あなたのすること、言うことを導くようになる」(二八一-二〇)。キリスト意識に目覚めるということは、霊の果実を現出せしめることだという。そのためには、「同胞愛、親切、忍耐、辛抱強いやさしさ」(三五八九-一)を実践しなくてはならない。キリスト意識として現れるキリストが、我々を守護することもあるという、我々の日々の生活にとって非常に意義深い内容が、次のリーディングの中で語られている。「……キリスト意識の思念を自分の周囲にめぐらせている限り、内からの影響力であろうと、その者を傷つけることはできない。その意識をまとえるようになったら、今度は、他人との交わりの中でも同じことを実行せよ」(二〇八一-二)。

 どうしたらこの大いなる真実の世界を受け入れ、それに参加できるようになるのか、どうすれば自己を正しく開くことができるのか、その答えは、「主が示されたように、求めることによって、恩寵と慈悲の御座の前にて自己を低めることによってである。主を汝の主として、さよう汝の長兄として認識する事によってである。主も次のように語られた。『あなたが開けるなら、私は来て、あなたと共に住もう』と」(二八四五-一。参照 黙示録3章20節)。「……真摯に、熱心に主を知ろうとし、また主に導かれんと望む者が、主に近づき得るのだ。主が語られたように、主の御名を信じることで、あらゆることが可能になるのだ」(五七四九-四。参照 マルコ10章27節他)。”

 

  (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

 

 

〔主なる神の御名〕   I AM THAT I AM

 “出エジプト記(3.14)によると、モーゼ80歳の時、神は神の山ホレブに顕現され、エジプトからイスラエルの民を脱出させる使命をモーゼに授けたとされる。モーゼが「イスラエルの民に対して、わたしに使命を授けた方の名前を何と説明すればいいのでしょうか」と尋ねると、神は、「”I AM THAT I AM“という名の神が授けたと答えよ」と告げられた。
 この“I AM THAT I AM”は、日本語聖書では一般に「われは在りて在る者」という直訳的な訳がなされており、新共同訳でも「わたしはある。わたしはあるという者だ」という訳になっている。この謎のような名前故に、神学者たちもさまざまな解釈を示してきた。
 たとえば、カール・バルトは、神は客観的な定義を超えた存在であり、「名前の拒否にこそその本質を持つ」絶対的な「われたること」の告知であろうと解釈する。また、エルンスト・ブロッホは「わたしは、わたしが有るであろう者であるだろう」と訳し、それを「現実的な歴史状況に未来変革的な力としてかかわり続ける者のしるし」という風に理解する。あるいはユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは「わたしは、(まさに)そこにいるであろう者として、そこにいるであろう」と訳し得るとしている。
 一方、リーディングはこの“I AM THAT I AM”にきわめて明解な解釈を与えている。すなわち、最初の“I AM”は自己の内なる霊を表わし、次の“I AM”はより大いなる霊、つまり神を表している。つまり、“I AM THAT I AM”は、神の属性をあますところなく反映したところの自己(=神我)を意味する。あるいは自分(“I AM”)という個でありながら、全体(“THAT I AM”)と一体であることを意味すると考えることもできる。
 “I AM THAT I AM”という神の名の中に、すでに自己(“I AM”)を知ることが神(“THAT I AM”)を知る道であることが示されているのである。
 さらなる探究を望まれる方は、877-2、1158-9、1376-1、2533-8、3574-2等のリーディングが手掛かりになるだろう。”

         (エドガー・ケイシー口述「神の探求Ⅰ」たま出版より)

*エドガー・ケイシーは、晩年、ある人から「あなたの最大の業績は何ですか」と問われた時、躊躇なく「『神の探求』というテキストをこの世に遺したことです」と答えたと伝えられています。