自分を生きているのに苦しい
いい人で真面目に生きてきた人ほど、ある時ふと違和感を抱きます。
周囲に合わせ、常識を守り、期待に応えながら生きてきた。
けれど、どこか満たされない。
頑張っているのに、心が静かにならない。
それは能力不足ではありません。
努力が足りないわけでもありません。
むしろ問題は、
「自分で選んでいるつもりの思考」が、
実は共同幻想の中で形成されていること
にあります。
共同幻想とは、社会・世間・空気・常識・評価など、多くの人が無意識に共有している価値観です。
「こうあるべき」
「普通はこうする」
「成功とはこういう状態」
その集合意識の中で生きているうちに、人は少しずつ、自分の感覚より“外側の正解”を優先するようになります。
そして厄介なのは、本人にその自覚がないことです。
自分は見失っていない
という思い込み
本当に深いとらわれは、
「自分はとらわれていない」と思っている状態です。
禅では、執着そのものより、執着に気づけない状態を重く見ます。
たとえば、
SNSで他人と比較して疲れていても、
「向上心だから仕方ない」と正当化する。
本当は無理をしているのに、
「これくらい普通」と飲み込んでしまう。
周囲に合わせ続けているのに、
「自分の意思で生きている」と思い込む。
ここに、現代人の苦しさがあります。
つまり、
他人軸で生きていることに気づけないほど、
他人軸が身体に染み込んでいるのです。
だからこそ、単なるポジティブ思考や自己啓発だけでは、根本が変わりません。
一時的に気分は上がっても、また不安に戻る。
なぜなら、“思考の土台”が共同幻想のままだからです。
感覚を取り戻す
本当の意味での自信とは、
「自分を大きく見せる力」ではありません。
静かに、自分の感覚を信じられる状態です。
他人より優れている必要はありません。
誰かに認められる必要もありません。
むしろ、日常にいつもある心が動く感覚。
そうした“何でもない快”を受け取れる状態に、人間本来の安定があります。
仏性とは、特別な能力ではありません。
本来の静けさに戻ろうとする、人間の自然な働きです。
共同幻想に飲み込まれる時、人は頭だけで生き始めます。
しかし快を感じられる人は、身体に戻っています。
だから禅は、
「考えすぎる前に坐る」
「まず呼吸する」
「歩く」
といった、極めて単純な実践を重視してきました。
身体感覚を取り戻すことで、他人の価値観から少し距離を置けるからです。
世界を変える前に
自分の立ち位置を静かに見直す
共同幻想は、完全に消えるものではありません。
社会の中で生きる以上、私たちは影響を受け続けます。
ですが、その中で「これは本当に自分の感覚なのか」と立ち止まれる人は、少しずつ自分軸を取り戻していきます。
大切なのは、劇的に変わることではありません。
無理にポジティブになることでもありません。
静かに、自分へ戻ることです。
比較で削れた感覚を戻す。
外側ばかり見ていた視線を、自分の内へ戻す。
小さな快を感じる余白をつくる。
その積み重ねが、内なる平穏につながっていきます。
人は、自分を取り戻した時、急に強くなるのではありません。ただ、余計な力みが抜けていきます。
それが、本来の意味での「自然体」です。
外の正解を追い続けるより
“今ここ”の快を感じられる人
が静かに強い
いつもの「我軸食」
自分の軸を、強くしなやかに養い、自律的に生きるための食事を心がけます。ご先祖様、太陽、水、空気に感謝します。
