今日は文化祭だったので、ちょっとくそ真面目に…社会主義について話したときの授業の脱線話。
いま、何かにイラついていませんか?
そのイラつきを、社会主義と絡めて説明してみたいと思います
ではまず社会主義について。
そもそも社会主義がなんで独裁なイメージなのか。
それは、世界で初めて「社会主義」国家を名乗ったソヴィエト社会主義共和国連邦が結果たどり着いたのが、スターリンによる個人独裁だったから。
そしてそれが社会主義を目指そうという国にとっての最善のモデルケースになった。
社会主義国家が、資本家と労働者の間の生産手段の矛盾を解消するために、労働者階級が主導権を握ることを意味するとすると(なんかへんな日本語まぁそもそも破綻要因しかないわけだけど)…
労働者階級って一言で言ってもね…なわけで。
いずれにしても、そのような社会主義を名乗る国がいきつくのがスターリン、毛沢東、ポル・ポトらの個人独裁で、それが大虐殺を引き起こすのはなぜなのか。
それについて、興味深い解釈を見つけました
未来のユートピア(この場合、共産主義)を実現しようとすることは、現在を犠牲にすることである。
つまり…(来るか来ないかわからない理想としての)未来を語って、それを実現するためにみんなで頑張ろう!というと、なんかとてもとても正しい気がしてしまう。
けれど、そこには恐ろしいレトリックがあって、理想の未来を実現させるためには、いまを犠牲にしてもよい、ということになってしまう。
…犠牲の先に本当にユートピアなんてあると思う?
たとえば、日本が将来ユートピアの時代を迎えるために、現代を生きる人たちはその未来のために我慢してください。それが子どもたちのためです。
と言われたら??
これって、詐欺的手法にありがちなんじゃないかと思う。
将来のために~みたいな。
よほどハッキリしたビジョンとそこにたどり着く手法があるならべつだけど、そうでないなら、いま生きる人を大切にしないと幸せな未来なんてくるわけがない。
と思うんだよね。
ユートピアを目指すはずの社会主義国家を率いた三者がたどり着いたのは、未曾有の国民の大虐殺だった。
ユートピアを目指すためにいまを生きる人は殺されても我慢してねといわれて誰が我慢できますか。
いまは100年前からしてもものすごく技術的に発達してるけれど、この世界は誰かのビジョンではなく、結果こうなっただけであって。
ユートピアを目指した結果、ではない。
自分の人生とか会社くらいなら、明確なビジョンを描いてそこに向かうこともできるだろうけど、国なんて規模になると、誰かのビジョンどおりになんて独裁でもないとできるわけもなく。(独裁でも難しいと思う)
社会主義だろうとなかろうと、議会制民主主義には限界と欠点があって、他者が他者を本当に幸せにするのは難しい。
それなのに、政治家に国の成長だなんだということばっかりいわれるから、自分ではどうにもできない将来ばかりが気になって、どうにもならないことでイラつくことが多くなる。
毎日イラついてばかりだと、楽しい将来は絶対にやってこないよね。
イラつく今がもったいない。
今を犠牲にしても、ビジョンとルートが描けないならユートピアはやってこない。
(大学受験なんかはビジョンとルートが明確だから対処できるやつ)
だから今を幸せにすることを考えることが先決なんじゃないかと思うんだよね。
未来に起こる問題には、その都度対処していけばいいわけで。
だから、経済成長ってそんなに重要なのかなー?と最近思ってしまう。
もっとも国がやるべきことは、国民を守ることなんじゃないの?
ビジョンとそこへ至るルートを示さずに、将来のために現在を犠牲にし続けていれば、永遠に未来は実現しない。
のです。
という話をしました。
ではでは、経済成長ありきの資本主義の先が気になるので、『ポストキャピタリズム』という出たばっかりの本を読んでみようと思いますv(・∀・*)
綺麗事失礼しました
生徒の食いつきはなかなかすごかったです。