パ:ということはですね長宗我部元親にしてみれば、まっへんな言い方ですけれども秀吉の心証をよくしないと、これいけないと。

秀吉のために頑張ってるんですよって言う見せないとだめですよね。

 

野:ですから阿波、讃岐、伊予に土佐兵は相当数が侵攻していたわけですが、7月25日に降伏文書に調印した後、元親はできるだけ早く3カ国から兵を引くように各地の軍司令官に命令を出して、非常にすみやかに撤収がどうも完了したようです。

 

これがもしぐずぐずしていたり、約束を破るようなことがありますと直ちに四国征伐の軍勢はもう一度土佐に押し寄せてきてしまいますので、元も子もありませんからそこらへんはかなりスピーディーにやったお思うんですが、当の秀吉、元親が何度もお目通りを願う、上阪して大阪で秀吉様に会いたいのでというようなことを伝えたんですが、まったくとりあってくれません。

 

この時間帯はですから7月から9月になり、10月になり、なかなか秀吉が会ってくれない時間帯は元親にとっては胸がきゅっとなるような時間帯だったと思うんですが、やっと秀吉がどうも会ってくれそうになるわけですね。

 

それは四国攻めの総大将でありました豊臣秀長がとりなしてくれたころによってやっと上阪がかなうんですけれどもね、1回目の上阪、上洛では秀吉は会ってくれませんでした。

 

パ:まだ会わせてもらえない?!何回目で会えたんですかね?

 

野:翌年、天正14年の1月、この年にやっと秀吉はあってくれて、この時は大変厚遇されましてね。大坂城に元親を案内して、自らいろいろな部屋に案内をしましてね、自慢の宝物なんかを見せてもらったり、あるいは身にまとっているものを元親に着せてあげてね、ああよく似合うわというような言葉をかけてもらったり、まっ、軍記物の話なんでどこまでが正しいか分かりませんが、非常にこう厚遇をされたと。それによって元親は安心をし、しかも人質に出していた子どもも帰してもらって無事土佐に帰ってくる。で、国許で元親がいった言葉は「かような君に身を委ねてこそ武士の本懐」と言ったというんですが、これはやはり物語のみどころなんでしょうね。まだ完全に秀吉が信頼できるかというのは元親の中ではまだ油断ならないという気持ちはあったと思いますね。

 

パ:はい。まっ元親は秀吉に最後まで抵抗したという印象は秀吉は持ってるでしょうし、仮にそういう風に目通りがかなって非常に厚遇されたと言いましても秀吉のその態度の裏にはですね、秀吉なりのまた何か思惑っていうものがありそうだと考えますものね。

 

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