秀吉は弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景ら総勢10万という大軍を四国へ送り込む。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから、7月25日秀吉に降伏。土佐のみを安堵されることで許される。

 

天下取りへの歩みを進める秀吉はその目を四国へと向けます。秀吉が差し向けた四国征伐の軍勢の数およそ10万。元親のとった行動とは。

 

パ:秀吉との対決、対峙というところに戻しますけれども、長宗我部元親が秀吉と対峙するという事は天正10年以降ずっと続いていたことなのですけれども、それが野本さん、いよいよ表面化してくるという事になってくるんですかね。

 

野本:あの柴田勝家と秀吉との対決、それから小牧長久手合戦、これは家康と秀吉との対決でしたが、いずれも秀吉と反対側についた元親でしたが、比較的四国からやや離れた地域での話でした。ですから外交的に家康につきますよ、柴田につきますよというやり取りだけで済んだ話で、軍事行動を特にする必要がなかったわけですね。ところがそういったことが一つ一つ片付いていき、秀吉は自方を確実に固めていく、という状況になりますと次は当然四国の長宗我部元親という事になるわけですよ。

 

パ:はい。天下取りというものが、これは明確にあるわけですからね。そうなってくると四国を我が支配下にという動きは当然のことで、そうなってくると長宗我部元親は次は秀吉と真っ向から向き合わなければならなくなるんですけれども。この辺りはですね、実際にどんな展開を見せるんでしょうか。

 

野本:これもですね最近の研究で色んな説が出ております。実は天正10年以降ですね、一度早めに降伏しようとした形跡があるというような事を指摘する方もいるんですね。人質を出してですね。しかし秀吉には秀吉の都合があり、元親には元親の考えがありますからそれはうまくいかず、結果として天正13年秀吉と対決する羽目になるんですが、当初から元親の軍事行動を見ておりますと、そんなに徹底的にですね秀吉に対して抵抗する、そういう戦略だったのかどうか怪しいところがあるんです。どういった軍勢、軍編成で秀吉軍が押し寄せてくるのかという事なんですが、総大将は秀吉の弟秀長、副参謀格で秀次が付いております。この二人がツートップのような形で、この二人の部隊だけで6万人軍勢がいるわけですね。

 

パ:は、はい。

 

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