長宗我部軍の侵攻のより追い詰められた三好氏は状況を打開するために織田信長の家臣・羽柴秀吉に接近し、

後ろ盾を得た上で長宗我部元親に対抗しようとします。

重臣であった明智光秀を遠ざけはじめた信長はその誼で四国平定を認めた長宗我部元親に対しても牙をむき始めることになります。

 

パ:長宗我部元親に対して一度承認したはずの織田信長からもうそれぐらいにしておかないか。ということが来るわけですか?!

 

野:これは元親にしてみればですねぇ、ちょっと納得出来ない。

自分の長男に「信」の一字までもらって天正3年にあれだけの契約をしたじゃないかと。

それがこうも心変わりしてしまうのですかということでだんだん信長に対して反発心というものも芽生えてきます。

 

パ:はい。じゃその後、讃岐、阿波平定戦、さらには中央権力者、時の権力者織田信長を取り巻く状況の中、長宗我部元親、次なる一手というとなかなか難しいものになってくるかとおもいますが。

 

野:実際に元親の指示で安土城に使者としていきました、弟の香宗我部親泰などから信長という人がどういう人かという報告も受け、周辺情報もかなり収集して、信長の心変わりはこれどうも本物だぞということになってきますと、戦略の見直しが必要になってきます。

あの、先ほど大義名分ということを何度も言いました。細川氏のかつて家臣であった自分たちが三好という悪逆非道の謀反人を排除する戦いなのだといくら言っても、やはり実質的な天下人である信長の承認があってこそその大義名分は通じる話でありまして、この一角が崩れてしまうといくら四国の秩序は自分たちでというようなことを元親が言いましても、現実問題として上方からのプレッシャーを受けるようになると。

やはり信長の方に味方しようかなとか、そういう人は出てくるわけですから、やはり全てやり直しになってしまう危険性をはらんでいます。

じゃあいますぐですね、せっかく血を流して土佐の勢力下に置いたエリアを手放すとか、あるいは一定の権益を三好に返して、引くというようなことはこれは絶対に出来ないんですね。

あの~、そりゃ阿波・讃岐の地元の兵を先陣切らせるような形で自分の損害が少なく戦っているとは言いましても、阿波の戦いでは安芸郡、香美郡の将兵が相当数戦死をしています。それから讃岐の戦いでは長岡郡・土佐郡・あるいは吾川から出撃していった元親の部下も死んでいるわけです。戦死者に対しては当然、遺族に対して弔いをしなければいけません、それなりの見返りをしなければ次の戦に軍令をかけても誰も来なくなりますよね。

そういうことをやっているさなかに信長のプレッシャー、心変わりがあったからといって、ごめんなさい今まで占領したとこ、全部もうなしですってそりゃあもうやはり納得できないわけですよね。

ですからなんとか、せめていま戦力下に置いているところを引き上げない形で信長と外交によってですね、もう一度自分を高くかってもらって、三好の勢力を弱めていくような、三好のそういう政治活動を弱めるようなことを考えざるをえないんですけれども、なかなかこれはうまく結果的には進まなかったんです。

 

FM高知様の長宗我部元親on the history第21回はこちら

 

補足

この放送当時は、信長公の偏諱授与を天正3年とする説が有力でしたが、最近は天正6年説が有力のようです。