パ:はい。つまり主君に刃を向けた者と、主君に刃を向けなかった者とではやはり周りから見てもですよね、見る目がずいぶんと違ってきますもんね。
野:これ、非常に当時の時代では大事なことなんです。ですから三好のほうがやはり評判が悪いわけです。
特にあの、三好長慶なんていうフロイスの日本史に出てくるような名将を生んだ家なんですけれども。
その数代後の三好長治なんていう人はですね、阿波の国の寺院をすべて日蓮宗にしてしまえ!
なんていう無理むっちゃく(土佐弁でむりむちゃくちゃの意味です)を言う。
そんな悪政をしたもんですから、もう三好はだめだと。三好になってからロクなことがないということを
阿波の武士たちの中からも三好に対して非常に反発をする人たちがたくさん出てくるわけです。
そうなってきますと、何かそれに変わる阿波の国にもう一度秩序を保ってもらえるような大きい権力に期待をする。
これはやはり当然の心理だったと思うんですねぇ。
元親はそこに調略をしかけていくわけです。
パ:はい。ということは長宗我部元親の歴史を振り返る上で我々は四国平定戦というような呼び方をしたりしますけれども、
あえて四国平定戦といって、まずその阿波、三好に向けての調略をしかける。
という今のお話でしたけれども、ここは一つその、三好氏のとったまあいわゆる宗教統制のようなことに対しても長宗我部元親は
非常につけいる隙がありそうですね。
野:やはり中世の人々は、近世の人もそうだし、現代の我々もそうですが、やはりあの宗教にすがるという部分は大変大きいウエイトを占めるんです。それを乱暴にも一つの宗派で国内の寺院をすべて固めてしまうなどという悪政をしかれますと、
これはやはりもう離反者が激増しても仕方ない。おかしくない。
パ:はい。そして実際に土佐の長宗我部にというような動きが具体的に出てきたんですよね?やはり。
野:反三好の機運が非常に高いエリアからそういう機運が生まれました。具体的に言いますと、阿波の東南部の海岸地帯に城と領地を持つ武将。これはなだれをうって元親のほうに味方をするようになります。
それから元々独立性が非常に高くて、細川氏の時代から完全には服従していなかったといわれています、吉野川の山間部の武士たち。
山岳武士という言い方なんかを地元ではしておりますが、こういった山岳武士たちも三好を見限り、土佐の長宗我部に対して気脈を通じる。
ですから吉野川の上流域、沿岸部。こういったエリアは比較的早い段階、天正4年~天正5、6年の間に土佐と同盟を結ぶという動きを示すわけです。
FM高知様の長宗我部元親on the history第18回はこちら
阿波国内にもやはり協力者がいたのですね。