土佐の戦国大名長宗我部元親の生涯にスポットをあててお送りしている長宗我部元親オンザヒストリー、

ここまでは長宗我部家の出自から元親の父、国親の代から元親が当主となって以降の

土佐の平定の歩み、さらに土佐一国をほぼ手中に治めたころの京の都を中心とした全国の状況について。

そして元親は時の権力者であった織田信長にどのように接近したのか。その外交術とはどんなものであったのか、

織田信長に使者を遣わすことによって四国平定戦の認可を取り付けるため。元親の長男に信長の「信」、

しんの一字を拝領することに成功した長宗我部元親。ではなぜこのように事がスムーズに運んだのでしょうか。

今週はその部分についてのお話です。

 

パ:これで織田信長から四国の仕置きを渡し任されたに等しいんですよ。ということでもって、

土佐国外、四国内の土佐国外へ出て行く大義名分がもう出来上がりかけてきてますもんね。

 

野:あの、みなさん。ここで1つ疑問があると思うんです。

信長からすれば長宗我部元親なんてのは田舎の武将です。

見たこともなければ聞いたこともない。氏、素性もよく分からない。

なんでそんな田舎の大名に自分の実名、大事なね、実の名前の一字をその息子にくれてやらなければいけなかったのか。

信長からみた元親の存在、利用価値ってのはそんなに高かったのかっていう風に疑問に思われると思うんです。

事実織田信長というのは武家社会における伝統的な儀式、あるいは伝統的なものの考え方ってものをけっこう否定する人なんです。

あまりこだわらない。これまでも信長様、一字ちょうだい、一字をくださいませなんていう要求がね、諸国からもけっこうあった。全部突っぱねてきてるわけです。

 

パ:ですよね。ありがちな話なんですもんね。信長が一字、このときにやったってのは非常にイレギュラーな話だったんですよね。

なぜ信長は長宗我部家に対してだけはそれを許したのかということですものね。

 

野:そう思いますでしょ。これにはちゃんと理由があるんです。

実を言いますと、長宗我部元親の妻、正妻なんですが、美濃国の出身で、石の谷とかいて石谷(いしがい)

という名前の武家があります。

元々室町幕府の将軍家に使える御走衆、奉公衆、まあ今風にいいますと親衛隊ですね。

源氏の血を引く、大変将軍の側に仕える名家なんです。そこの出身なんですね。

 

パ:奥さんがね。

 

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