野:先ほど東部はほぼ収まったと言いましたが、国境付近はまだ完全に平定されてなかったんですね。ですからその総仕上げを天正3年、主に中央部、東部の諸将に軍令を発っしまして、甲浦を攻略いたしまして、阿波との国境まできっちり平定をしきって、それをその、しばらくの間軍事作戦の主眼としていたわけなんです。

 

パ:なるほど。ということは、西をある程度沈静化させる時間を使って、東を完全に押さえようと。それが甲浦となりますとですね、その、まっ、関西・近畿の交易の時にも港であるとか、拠点であるとかいったとこではきっと大事なところでもあったんでしょうからね。うまく西へ東へバランスを取りながら動いてますね。

 

野:やはりそのあたりは大変上手ですね。2人の弟、1人は香宗我部親泰、これは香美郡の香宗のエリアにおりました香宗我部氏の養子に入っております。2つ下の弟です。吉良親貞は1つ下の弟。この2人の弟を東西において、軍司令官に任命をして、それぞれの地域の平定作戦をやる。自らは岡豊で全体のバランスを取る。バランスを取るのが非常に上手な武将でしたね。

 

パ:はい、その沈静化に西のほうの時間を少し使いました。

その間にちゃんと東、高知県の東部のほうも押さえることができましたね。

そうなると元親の目線はまた西のほうへ向いていくかとは思いますけれども・・・・

 

野:はい、あの~、研究者によりましては、この甲浦の平定によって土佐一国の平定が完了したとおっしゃる方もいます。

基本的にはそれでいいと思うんですが、ただ先ほど来申しましたように、幡多郡内の状況というのはまだ長宗我部氏の思い通りにすべてがなるような状況ではありません。

要するに戦で屈服させたわけではありませんから、幡多郡内の中にはやはり依然として長宗我部元親に対して不満を持つ人たち、たくさんいたわけです。

ただ、兼定が豊後に追放されてしまったために、兵を挙げるタイミングを失っていたとこもありましてね。とこどがですね、実はあの、元親にとって一見ピンチに見えるような形なんですが、実はその機会を待っていたとも言えるような大事件が勃発するわけです。

 

パ:大事件?!

 

野:はい。

 

パ:大事件とはなんとなく想像がつかないでもありませんけれども、豊後のあたりまでいったはずの人がみたいな話しですか?

 

野:大友宗麟の下で匿われていた一条兼定が幡多・中村を取り返すために自分の義理の父である宗麟から兵を借りましてね、逆襲作戦をはじめるわけです。


 


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