一条兼定の追放後、元親は次の一条家の当主となった一条内政を中村から岡豊の目の前の大津城にうつし、後見人として養育するという立場をとります。慎重にことを進める長宗我部元親ですが、いったん落ち着きを取り戻した感のある西部の動向を見極めた後、長宗我部元親が次に取った行動とは、どのようなものだったのでしょうか。

 

パ:中村城代に弟を送りました。もうぱっとみるとですね、土佐一国これでほぼ長宗我部家の息が西から東までついにかかったようにも思えますけれども。

これで土佐一国をというふうに我々が理解するのはまだ早いですか?

 

野:天正2年の段階ではまだ無理ですね。やはりあの、一条内政という兼定の息子、形の上でとはいえ預かって、大津御所というのをしつらえている以上、やはり形式的には一条内政というまだ若い男の子ですけれども、元親の上にくるわけです。そのことは逆転することはできません。あくまでも内政がいて、その2番手という形にはなるわけですね、

そのことを非常に元親、よく分かってますから、中央にはまだ朝廷も、帝もちゃんと君臨しえいるわけですよ。そういう状況も見ておりますので、一足飛びには幡多郡を全部接収をして、例えば自分の気に入った家臣団に土地を分け与えたりとか、そんなことをしてしまえば悪逆非道の大将ということになってしまって、たちまち今度は元親の名声に傷が付くというのは本人も分かっておりますうので、あくまでも一条氏を滅ぼすのではなく、一条氏の中のいろんな問題を解決するための、これは方便として方策として自分は力を貸しているに過ぎない。だからゆくゆくは内政様にお返しするんだという線は絶対に変えないんです。

だから天正2年になっても、天正3年になっても一気に幡多郡のすべての田畑、屋敷、こういったものを長宗我部軍が片っ端から接収するだとか、そういう荒っぽいことはやりません。

 

パ:となると、この次に非常に慎重に、少しずつステップを踏んでいっているように見えますけれども、次なる元親の打った手というのはどんなものだったんですか?

 

野:ひとまず時間をおきます。で、おいておいて何をしましたかと言いますと、吾川郡から高岡郡に進出していた主力部隊の一部を番兵に残し、また岡豊へ全部引き上げていきます。

幡多郡内に結局そのまま軍勢を進めるというのはなかったわけなんですね。非常に賢いやり方です。

あのいくら外交で美辞麗句を並べても、岡豊から長宗我部の旗を立てた軍勢が中村の町の中へどかどか入ってくれば、これは反発を買いますよね。そういうことはしないで、確かに吉良親貞を城代として残すんですが、そんな大規模な部隊を残すわけではないんですね。主力の大半を1回岡豊まで引いて、ちょっと沈静化を図るわけです。

そうしておいて、何をしたかと言いますと、実は土佐東部の甲浦(かんのうら)、この辺がまだ完全平定できてなかったんです。

 

 

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