パ:えっ?自らの拠点であるところから自分の目の前に置く、監視下に置くんですか?そんなことやってよかったんですかね?
野:これはなかなか思い切ったことをしたもんですね。よくあの一条内政のそばに居た家老や年寄や重臣たちがそれを認めたなという感じなんですが、これも周到な準備をおそらくしていたんでしょう。自分の指揮下において、これからは立派に御養育、当方が兼定公にかわってこの元親の名において内政様を必ずや立派にご養育させますと。
兼定の、兼定を支持するよからぬ輩に内政様が担がれて、万が一のことがあっては大変ですから、この岡豊の近くの大津城にお移しして、そこに大津御所をしつらえますから、そこで一定期間御養育あそばしたのちに、幡多郡にお返しして、これまでどおりというような話し合いをどうも内政との間でつけていたのではないかと考えられます。
パ:それはまるで元親の父・国親が一条家に保護されてのちに、岡豊に入城した。そのようなことをですね、やはり自分の親もお世話になっておりましたから、同じようにやりますよというような感じで、同じようにはたぶんやらなかったんですよね?
野:まあ、あの、自分の父親の国親と言いますかね、かつて自分の父がお世話になって、その逆を今度は元親がやるという形になるとは思うんですけれども、ただその意味は大変大きゅうございましてね。え~、土佐に下向してきて中村に館、御所を構えて以来、一回も中村から離れたことのなかった土佐一条氏の直系をその岡豊近くに持ってくるということ、そして一条氏に対して忠誠を誓っていた人々から切り離すということが実質的には土佐一条氏を根無し草にすることにも通じてきますし、元親が本気で養育を済ませた後、中村城に戻す気だったかどうか、これは本人に聞かなければもちろん分かりません。そしてその一条内政を大津城にうつし、大津御所をしつらえた後、元親は自分の娘を嫁がせます。
親戚関係を結ぶ訳ですね。
そうしておいて、先ほど来ご説明いたしました、西の軍司令官として泥をずっとかぶり続けてきた吉良親貞が中村城に入城していくわけです。
そしてそれはあくまでも中村城城代という形をとって、接収したのではないという形を取り、必要以上な幡多郡内の国人、地侍層の反発を受けない配慮も見せるわけです。
FM高知様の長宗我部元親on the history第⑫回はこちら
Aの感想:
土佐物語にあるように、天正4年吉良親貞公病死説がずっと言われてますが、
個人的には土佐埋木伝や土佐史談で地元歴史家の方々が主張されているように、
生きていたが、中村城から引いた説を勝手に信じています。
土佐埋木伝で提唱された、出家説がありそうな気がしています。
もちろん根拠はありません。そうだったらいいな、です。
泥をかぶった、その責任を取るために一線から引いたと。
そうだったらいいなと私情が挟まれると、途端だめなわけですが・・・それでも自分は信じたい。
大河ドラマになって、研究が進んで、いろんな資料が出てきて、吉良親貞公生きてた説が証明されないか・・・。