かまやばし
 
常総市水海道宝町のカシワヤ薬局の前にポツンとある「かまやばし」と掘られた構造物。
裏面を見ると明治時代に作られたものであることが分かります。
かつてここには釜屋という店があり、その店の前にあった堀が釜屋堀と呼ばれていたとか。
その釜屋堀にかけられた橋であることから、「かまやばし」というわけです。
もっともこの「かまやばし」、橋というにはあまりにも短く、当時の人が軽い冗談のつもりで作ったものかもしれません。
 
排水路
 
1700-1760頃の絵図(江連八間堀川土地改良区『水と闘う』より)
 
さて、この釜屋堀ですが、歴史は意外と古く、元禄期にはすでに存在しており、一説によると1625年頃に開削された堀のようです。
江戸時代以前の水海道村は、鬼怒川沿いの元町と新町(天満町)に細長く建物が立ち並ぶだけの寒村であったとされていますが、江戸時代以降、高台に居住地が不足し、現在の宝町の元となる宝洞宿が作られていきます。
釜屋堀はその開発の際に掘られた排水路であるので、いわば水海道を下から支えている縁の下の力持ちといったところでしょうか。
 
なお、この釜屋堀川は、町中の排水を集め、常総市水海道高野町地先で鬼怒川に落ちていますが、結果としてこの落とし口付近は水害の際に水が溜まる場所ということになります。
特に昭和13年の洪水の際には、このあたりの土手が決壊していますが、これは鬼怒川に戻る水による自然決壊とされています。
 
しかしながら、この決壊には逸話があります(八間堀川沿岸土地改良区市『水と闘う』より)。
昭和13年に当地が水害にあった際、高野町の水位が下がらない様子を見かねた落合氏が、災害対策本部に土手を切り崩して水位が下がった鬼怒川に排水することを提案するも、法律上そのようなことはできないと一蹴されてしまします。
しかしながら、高野町に戻った落合氏は責任はすべて自分がとるとして、土手の切り崩しを決行し、高野町は救われたとのことで、この際、土手は自然決壊と処理されたようです。
 
賛否両論があるでしょうが、自然災害は想定を超えた出来事ですから、柔軟な対応が求められるのは事実かもしれませんね。
 
釜屋堀川(DAN杉本スーパー地形図より)
 
なお、この釜屋堀、開発により一部暗渠化されたほか、その流路も一部変更されていますが、図書館の脇を通る中堀とともに、一級河川釜屋堀川として今でもその名前と痕跡をとどめています。
 
釜屋堀川暗渠
 
釜屋堀川開渠
 
釜屋堀川暗渠
 
中堀・釜屋堀川合流地点
 
釜屋堀川暗渠
 
釜屋堀川暗渠
 
釜屋堀川暗渠