2024.5.31
今回の泉南市歴史倶楽部の例会はちょっと趣向を変えて気軽に街歩きと言うことで
大阪市の天満から造幣局を見学して大川べりを歩きました。
xx跡ということで碑が立っているだけのところがほとんどですが4回に分けて報告
します。
今日のコース
JR大阪天満宮駅~大阪天満宮~桜之宮公園(昼食)~造幣局~JR大阪城北詰駅
天満宮の境内にはいろいろな史跡などがありました。もう少し紹介します。
立て札に瓢遊という人の歌が書かれています。
瓢遊は、幕末から明治にかけて蟹島新地(今の北浜一丁目あたり)で高級料理旅館「瓢箪屋」を営んでいた人物で、本名は帯屋源兵衛。無類のひょうたんマニアだった
瓢遊は天神さんを崇敬していたようで天満宮には西山宗因が創始者の連歌所もあったことから、このようなものが残っているのかも?
立派なこの碑はよくわかりません。誰か教えてください。
志るべの石。人の多勢集まる場所に設けられたようです。たぶん標石。
大将軍社。白雉元年(650)孝徳天皇が長柄豊碕宮鎮護の為に現在ここにある
大将軍社を祀ったのが最初とされ、その後、901年に菅原道真が大宰府へ向かう
途中に大将軍社で旅の無事を祈願したそうです。道真死後、その怨霊を鎮めるため
村上天皇の勅願によって社殿が創設され、天満宮となったようです。
大将軍社の左手奥に神明社(右)と蛭子遷殿があります。
大将軍社の横にある後藤夜半の句碑。「人形の宿祢はいづこ祭船」
大阪天満宮境内にある梅香学院の1階に菅家廊下と表札の架かっています。
菅原道真の一生を博多人形で再現した菅公縁起が設けられていました。
まだまだたくさん摂社、末社、石碑がありましたが報告しきれていません。
日本書紀では神武天皇東征の折、辿り着いたのが上町台地のこの辺、難波之崎。
潮流激しく浪速の国と言われたが後に難波に変わったとか。
蛭子門を入った右に「浪華津に さく夜の雨や 花の春」と彫られた西山宗因の句碑。
右の唐破風屋根が白太夫社、左が老松社紅梅殿。蛭子門を入った左手にあります。
蛭子門です。この門を入って左手に戎社があったそうですが今は移動しています。
蛭子門の入り口に大阪ガラス発祥の地の碑。
長崎のガラス商人・播磨屋清兵衛がここでガラスの製造を始めたことから江戸時代、天満は日本一のガラス製造都市となります。戦後の工場移転などにより衰退しまし
たが、2000年に天満のガラス職人が薩摩切子の技術を継承した天満切子を販売、新たな大阪名産を目指しています。その方たちが建てた石碑のようです。
奥に鯛とお神酒を持った戎さんの石像があります。
天満宮の表大門の右手横に西山宗因向栄庵跡の碑がありました。
西山宗因は、江戸時代に活躍した俳人で、ここに庵を結び、庶民的で自由な作風の
「談林(だんりん)派」を開きました。諸国の武士や大坂の豪商が弟子となり、
井原西鶴もその一人でした。
大阪天満宮の表大門を出て左へ。川端康成生誕地の碑があります。
料亭「相生楼」の玄関前にあったのですが料亭はマンションに建て替わっています。
江戸時代、大阪は淀川(大川)を挟み三区分され、大阪三郷と呼ばれており、大川
以北の天満組、以南は北組、南組に二分され、それぞれ惣会所が設置されました。
ここに天満組の惣会所が置かれ町人によるある程度の自治が許され惣年寄以下の役職
者が事務にあたっていたそうです。地図に位置が書き込まれていました。
滝川公園まで来ると先ほどの天満組惣会所跡の碑がありました。
実際の惣会所跡はここから道を隔てた西北角の先ほど説明板の位置だそうです。
公園内を南に中ほど東寄りに天満興正寺跡の碑があります。
当初は天台宗でしたが真宗興正寺となり天正13年(1585)には広大な堂舎を
営んでいたそうです。江戸時代には天満組の「宗旨人別帳」を当寺に納めることに
なっていたようです。大塩の乱などで度々被害を受けますが安政2年(1855)に
再建された書院などは、明治20年から36年まで関西法律学校(現関西大学)の
校舎として利用されていましたが、戦災で焼失したそうです。
その2の報告はここまでです。