2024.3.14

泉南市歴史倶楽部の例会

戦国時代に作られた願泉寺を中心に造られた自治都市を起源とする貝塚の寺内町を散策しました。南北約800メートル、東西約550メートルの広さをもつ環濠城塞都市で、西は大阪湾、北は北境川、南は清水川を濠と見立て、これらをつなぐ形で東に濠を巡らしてしていたようです。後年拡幅された中の町通りと府道堺阪南線を除け、街路はほぼ当時のまま、現在も使われています。

 

利斎坂を下り利斎家住宅の西に南北に交差する御下筋を南にちょうど願泉寺の裏付近

もとは願泉寺の境内と思われる位置に北小学校があります。

明治4年まで卜半役所と言われた政庁が置かれていたそうです。ちょうど正門付近に

役所の表門があったようです。和泉名所図会の願泉寺図に千古の松として描かれた

姫松が今は切り株の状態で残されているそうです。姫松伝説が残っています。

 

御下筋を北に戻り利斎家住宅を通り過ぎてさらに北へ。町家が並んでいます。

 

 

御下筋を北へ歩いて突き当たり右角に立つ岡本家住宅です。

江戸時代は醤油醸造業を営み、北町の町年寄を務めた有力町人でした。

 

御下筋の北端、岡本家住宅から左手、西に府道204号(旧国道26号)紀州街道に出て

北へ曲がったところに宇野家住宅があります。

江戸時代以来今も製粉業を営んでいます。建物と歩道の間に道路拡張前の紀州街道の

名残が残されています。

 

旧岸和田藩と旧貝塚寺内の境、環濠の役割を果たしていた北境川まで来ました。

川際に建つ尾食(おめし)家住宅です。堀並橋付近は紀州街道の上方口でした。

 

紀州街道から見た尾食(おめし)家住宅です。

江戸時代を通じて旅籠屋や両替商を営み、幕末には干鰯(ほしか)屋(魚肥販売)や

木綿仲買なども営んでいたそうです。

 

紀州街道を南へ引き返します。先ほど前を通った宇野家住宅が道路の向こうに。

 

宇野家住宅を通り過ぎたところで府道から右折。寺田家、種子島家などが取り壊されてしまった比較的古い街並みの残る中北の町家まで来ました。

 

 

中北の街並みを通り抜けると西町。

江戸時代は北前船も行き交う港として栄え漁獲物は卜半家を通じて徳川家などに贈答品として贈られていました。近代以降も魚市場や廻船問屋の土蔵が建ち並び、和泉名所図会の貝塚浦を偲ぶ地区でしたが今はその面影が失われつつあります。

竹本家住宅です。古家を購入して内部を改装したもので江戸時代末期の建物です。

出格子や与力窓を配し無双窓から願泉寺を望む造りから卜半家の家来屋敷の可能性が

あるとのこと。

 

さらに南へ吉村家住宅です。屋号を泉久といい、江戸時代は油屋や両替商を営み西町の中老役などを務めた有力町人だったようです。

 

吉村家住宅を過ぎ右手に曲がると廣海家住宅があります。

慶応年間には4隻の大型和船を有し、北陸、東北日本海、北海道産の米穀や肥料を

扱い、明治に海運業から撤退したが、戦前まで肥料商を営んでいました。

貝塚銀行や岸和田煉瓦など地元企業設立に関わり泉南地区の近代化に貢献しました。

 

吉村家住宅まで戻って南へしばらく歩いてまた右折。名加家住宅です。

大正年間までつげ櫛の卸問屋を営んでいました。

 

今日の町や巡りはほぼ終了。

大きな六地蔵が並ぶ海塚墓地には岩橋善兵衛の墓がありました。

貝塚出身で日本の望遠鏡製作の先駆者です。

 

墓地に隣接する龍雲寺。このお寺と墓地は岸和田藩の海塚新町に位置していましたが

願泉寺に伝わる寺内絵図には寺内墓と記され、寺内住民も利用したようです。

 

墓地から東へ紀州街道に出ると旧岸和田藩と旧貝塚卜半寺内町との南の境にあたる

清水川が環濠の役割を果たしています。清水橋付近は街道の紀州口です。

 

紀州街道を北へ、寺内町を歩きます。

 

旧国道26号線に出会って東に道路を渡たり上善寺に行きました。

右の松の木は塀の瓦を突き抜けています。

 

 

江戸時代末期の念仏僧、徳本上人の名号碑がありました。

 

墓地には南北朝時代に楠木正成の一族として北朝方と戦い貝塚市域で戦死した

橋本正高の墓碑がありました。

 

さらに妙泉寺の傍を通って

 

最後に卜半家の墓所に来ました。自然石の墓石が置かれています。

願泉寺卜半家第2代了閑の時に造られた墓所です。

初代卜半斎了珍の墓は海塚墓地にあったものが願泉寺境内に移されているそうです。

後半の報告はここまでです。

貝塚寺内町を詳しく紹介しているブログがあったので紹介させていただきます。

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