2022.12.8

久しぶりの泉南市歴史俱楽部のフィールドワーク。

阪南市の南海電鉄鳥取ノ荘駅から信長街道を泉南市まで史跡をめぐりました。

信長街道は、泉南市信達で熊野街道から分かれ、阪南市の鳥取で浜街道と合流する

約5.5Kmの街道で、織田信長が紀州雑賀攻めを目的に整備されたといわれています。

2回に分けて報告します。

 

大願寺には石橋直之の墓があります。

石橋直之は明暦2年(1656)に下出で生まれ、古来の泉州に関するあらゆる書物を読み調べ、和泉国中の神社仏閣を歴訪、その見聞をもとに全泉州の地理を扱った最初の書物「泉州州志」を編纂し、元禄13年(1700)に刊行した人です。

 

濱堂薬師が祀られている薬師堂です。

 

浄土宗法脈板碑と呼ばれている石塔婆の一種で平板石を使い、頂きを三角形に造った

板碑です。上部に阿弥陀如来立像、その下に開山の善心比丘尼像、右に善導大師像、左に法然上人立像が刻まれています。また善心比丘尼像の左右にわけて「永禄十二(1569)年二月十五日」とあります。浄土宗の本尊、高祖善、宗祖と大願寺を開山

である善心尼とが一枚の板碑に彫られています。

 

濱堂薬師の縁起は南北朝時代の頃、岸和田城主、和田正遠の馬が下出で倒れたけれど小川の水を飲ますと元気になり、付近の農夫に聞くと、濱堂に祀る薬師如来の霊験に違いないということで、その小川を馬川と名付け、この薬師如来を厚く信仰したとのことです。その濱堂薬師が現在、この堂に移されているとのことです。

 

大願寺を辞して再び街道へ。

身体の悪いところをさすると、治るといわれる下出不動尊の祠がありました。

損傷が激しくなったので平成10年に新しくされたそうです。

 

男里川を渡って阪南市から泉南市へ

 

光平寺があります。創建は平安時代後期まで遡ると考えられる寺院です。

戦国時代は根来寺の末寺として広大な寺域を有していたけれど、信長・秀吉の紀州

攻めの際焼失、その後再建されたと伝わります。明治時代の神仏分離令までは

男(おの)神社の神宮寺でもありました。拝観するには事前に予約が必要です。

経は表を通過。境内には南北朝時代の五輪塔があるそうです。

五輪塔の地輪の左右には、正平24年(1369)に「為法界衆生願主?圓」と刻まれ

「?圓」という人が、縁なき多くの人々の供養塔として建てたことがわかります。

この時期、泉南地域でも南北朝の争いが激しい戦乱や正平南海地震でこの地を襲ったと思われる津波に見舞われた人々の供養のためと考えられます。

 

男神社へ寄りました。大阪みどりの百選にも選ばれた、豊かな緑の神社です。

 

 

古事記・日本書記によれば、神武東遷のおり、生駒で長髄彦の抵抗により、兄五瀬命が負傷したため進路を変え、大阪湾を南下し、男里川河口で矢傷を清水で洗ったということです。傷を負った皇兄、五瀬命(いつせのみこと)が雄たけびをあげたことから、「おたけびの宮」とも呼ばれています。上陸地の天神の森から波風を受けない現在の地に貞観元年(859年)に遷宮されました。

本殿は17世紀中頃に建てられた五間社流造の社殿で、大阪府指定文化財です。

 

境内の樹木

 

無患子(むくろじ)の木

 

男(おの)神社の森の裏手に回るある小さい祠。たぶん真ん中の小さい石仏が

どこにでもよく見かける母乳がよく出るよう祈願するお地蔵さんのようです。

 

途中、神武天皇の兄、彦五瀬命が天神の森に上陸し、傷の手当をしたとき介助した

村人の子孫が右座、左座と別れ手当後に紀州竈山に向かう途中でこと切れた家来たち

を埋葬したという七塚の一つを眺めて(草に覆い隠されていて写真なし)馬場産土神

までやってきました。この辺りは以前にも歩いてここで報告しています。

馬場産土神は明治41年に信達神社に合祀された高城(たかじょう)神社の跡と

考えられるようです。

 

泉南市馬場の国道26号線トンネル北西の小高い丘に極楽密寺があります。

天平12年(730)行基開基による真言宗のお寺です。

 

義民小平次の碑。裏にその顕彰文が。

宝暦2年(1752)大干ばつ、イナゴの発生等で村民は餓死寸前。救助米の貸下げ

を岸和田藩に嘆願するも聞き入れられず、このため森田小平次らが藩の米蔵を破り

分配したそうです。

 

 

薬師堂

 

地蔵堂

 

小板屋大明神。

泉州むかし話に「小板屋小十郎狐」というのがあり、馬場集落の人達が小十郎狐は

この山に住んでいたボス狐だが極楽密寺に大明神として祀ったと伝わっています。

 

今日の終着点、岡前(おかざき)神社(牛頭天王社)に着きました。

俵屋から勧請されたようです。

この周辺は国市場と呼ばれていて昔は国市場の森があり、戎山ともいわれ戎社と

真道寺があったそうです。

金熊寺(きんゆうじ)権現社(信達神社)の秋祭りの神輿渡御の際、信達13ケ村の

国市場が開かれ賑わったそうです。

国市場は俵屋新田(屋次郎左衛門が中心となって開発された俵屋をはじめとする周辺17ヶ所の名称)村の飛地で明治22年に飛地は近隣諸村に編入されましたが、国市場

だけは明治41年まで日根野村(俵屋新田村と合併)飛地のままでした。

 

今回の信長街道歩きは泉南市の国市場で解散しました。

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