2019.10.27

大阪市平野区の一部、平野は40年ほど前、大念仏寺万部お練りを見に行っただけ。

今回、探訪して興味をそそる歴史豊かな町だということを知りました。

ここ平野の地名の由来は平安時代初期に坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂の荘園があった

ことから、「広野」が転訛して「平野」になったそうです。

JR平野駅から環濠に囲まれていた平野郷を中心にJR加美駅まで歩きました。3回に分けて報告します。

今回のコース

JR平野駅~杭全神社大念仏寺~南海平野駅跡~長寶寺全興寺赤留比売命神社~JR加美駅

その1はJR平野駅から大念仏寺までです。

 

JR平野駅です。駅前でもこのような建物が建っています。都市開発が進む中で空襲で被災しなかった

古い建物が残され新たな平野の町おこしの役割を担っています。

まず杭全神社へ行く途中、長寶寺と全興寺の墓所に寄りました。

ここには長寶寺を開山した坂上春子(慈心大姉)の墓があります。坂上春子は坂上田村麻呂の娘で、

平野庄領主だった坂上廣野麻呂の妹だそうで、桓武天皇妃でもあります。

杭全(くまた)神社はすぐ隣。注連縄の張られた標柱(しめばしら)をくぐると巨大なクスノキがあります。

樹齢1000年、高さ30m、周囲10mを超す巨木で大阪府の天然記念物です。

杭全神社拝殿

中門が拝殿と本殿の間にあります。本殿が3つ、

第1本殿。坂上広野麿が杭全荘を荘園として賜って居を構え、その子、当直(まさみち)が氏神として

貞観4年(862)素戔嗚尊(すさのおのみこと)を勧請し祇園社を創建したのが始まりです。

現本殿は正徳元年(1711)春日大社から移築されたものです。

 

建久元年(1190)熊野信仰の流行に及び、熊野證誠権現(素戔嗚尊)を勧請して建立した第三本殿。

 

元享元年(1321)熊野三所権現を勧請した第二本殿です。

 

国内に唯一現存する連歌所が社務所の奥座敷のような感じで建てられています。

 

遥拝所の傍に平野環濠跡の石碑が建っています。神社の東側に環濠が一部残されていました。

杭全公園も環濠が埋め立てられた後のようです。濠は埋められていますが橋が復元されています。

 

古地図と照らし合わせるとこの付近には船溜まりもあったようです。

 

二重環濠の外濠、平野川に架かる余慶橋を渡って平野の開祖、坂上広野麿の墓へ行くことに。

 

小さな坂上公園にやってきました。片隅に生垣に囲まれた中に石がポツンとあります。

広野麿はここに寺内6坊を有する修楽寺を創建したそうですが廃寺になり墓のみが残っています。

 

引き返して余慶橋を又渡り、真っすぐ。平野郷十三地蔵の一つ河骨池口地蔵がありました。

平野郷が環濠集落の時期、木戸口が13か所あり各々に大小の門と共に地蔵が祀られていたそうです。

 

さらに南へ、国道25号線に出る手前の民家の片隅に含翠堂趾の碑があります。

国道沿いの歩道に説明碑があります。江戸中期、京保2年(1717)宗家坂上(平野)氏を支えた、

平野7名家の一つ、土橋七郎兵衛友直が郷内好学の同志と共に創設した学校です。

学校の運営は同志の寄金とその運用で維持され飢饉の際などには窮民救済など社会救済センター

としても貢献したそうです。

 

大念仏寺まで行く途中、老舗の饅頭屋さん。亀乃饅頭・福本商店

 

杭全神社の参道に当たる辻に建っていた道標。

「 當社 熊野権現、祇園社 右 ふぢゐ寺、大峯山上、かうや山」

 

杭全神社の鳥居。前の通りが国道25号線。

 

国道沿いに西へ。平野小学校の門前にある古河藩陣屋跡の碑。

平野郷は近世には織田信長の直轄地になり豊臣秀吉は北政所の所領とし、大阪城や町づくりで平野の

商人を多数移住させ東平町,平野町、末吉橋などの地名を残しています。

徳川家康は末吉吉安を代官とし、大阪の役後の復興を命じ現在の町割りを完成させたようです。

高台院(北政所)が没後、一時的に直轄領、柳沢吉安の大名領、天領、その後、正徳三年(1713)

以降、古河藩の所領として明治維新まで続きました。

 

大念仏寺の山門の手前に建っていた十三地蔵の一つ、馬場口地蔵です。

 

大念仏寺山門に到着しました。

中央間を高い切妻屋根とし、両脇間は段違いに低い切妻屋根をのせた特異な形式です。

 

融通念仏宗総本山大念佛寺の本堂です。

現在の本堂は寛文3年建設された本堂が明治31年に焼失、昭和13年に再建された、府内最大級の

木造建築です。境内を散策してみました。

その1の報告はここまでです。境内の様子はその2で紹介します。

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