2016.5.11
泉南市埋蔵文化センターフィールドワーク「歴史倶楽部」は年間のテーマを設定し、それに沿った見学会を中心に歴史を考えるという講座です。
平成28年度のテーマは『「行基」の生涯を探る』ということになりました。
行基は奈良時代に活躍した僧で西暦668年に堺の家原寺(えばらじ)で生まれ、わが国で初めて
大僧正になった人です。民衆への布教活動や寺院建立のほかに全国各地でため池などの社会事業を行った
と言う伝承があります。行基の生誕から活動、入滅までを現地見学しながら学ぶことになりました。
復習をかね、頂いた資料や先生にご教示頂いたことを整理しています。聞き違いもあると思いますが・・
行基は天智天皇7年(668)父、高志才智(こしのさいち)、母、蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)の
長子として河内国大鳥郡に生まれ、生家は後に寺に改められ、家原寺(えばらじ)とされたそうです。
生存中の記録は残っていませんが墓誌「舎利瓶器」や「続日本紀」「行基年譜」等から足跡をうかがえます。

 

今回は岸和田市の久米田池を中心に見学しました。久米田池は周囲約2.7Km・満水面積45.6haの
規模を誇る大阪府内最大規模のため池です。平成27年に国際かんがい排水委員会から世界かんがい施設遺産に透谷されました。2回に分けて報告します。今回は久米田寺・久米田池から観音寺山遺跡までです。

 

 

今日のコース
JR下松駅~久米田古墳群~久米田寺~久米田池~摩湯山古墳~淡路神社~観音寺山遺跡~JR和泉府中駅

 

 

前回の報告に続いて久米田寺の境内を歩いています。不動明王を祀る五大院です。
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白龍弁財天を祀るこれも鎮守社です。池尻鎮守社と表示されている所を見ると久米田池を守っているのかも?
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これも塔頭の一つ。明王院です。門をくぐると石造りの仁王像が迎えてくれます。
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門を入った右手の堂。
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左手奥に平成20年にできた本堂。融通堂が建っています。泉大津市長生寺から移築された元の融通堂が老朽化したため立て直したそうです。如意宝珠融通尊を祀っているそうです。
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境内には沢山の石仏が建てられていました。
写真右手には高野素十の句碑「旅人に久米田の池の日短か」が。
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多宝塔。
空海が唐から帰朝後、伝法の拠点にした東寺から足利直義により奉納された仏舎利を祀っているそうです。
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多宝塔を取り囲むように四国八十八カ所の祠が並んでいます。
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大聖歓喜天を祀った聖天堂。
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多宝塔の奥の方に建物が見えます。行ってみました。
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夢殿を模した靖霊殿と言う建物です。
戦没者の霊を祀っているそうですが唐の僧玄奘三蔵の霊骨を奉安しているそうです。
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長々と行基階層の寺、久米田寺を報告しました。
久米田寺の前には広大な久米田池が広がっています。遠くには以前に行った神於山が見えます。
「行基年譜」によると天平6年(734)に行基によって造られたとされ、室町時代に記された「隆池院
縁起」では、神亀2年(725)から天平10年(738)にかけて、行基が付近の住民を組織して造った
と伝えています。現在の池の堤の高さは約8mありますが、行基が築いた当時はもっと低く、時代とともに
盛土が繰り返され現在に至ったようです。行基はこの地に物部田(ものべた)池も造ったとされており、
現在の久米田池は行基が造った久米田池と物部田池を近世になって併合させたという見解もあります。
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山林修業や仏教学研究を経て、民衆の中に入って仏の教えを説きながら様々な活動をした行基は当時の朝廷から庶民を惑わすと弾圧を受けますが、それに負けず活発に布教活動を行いながら、各地で寺院や灌漑用のため池、用水路、橋、道路などをつくり、多くの庶民から慕われたようです。
池の淵を歩いています。遠くに先ほど見学した久米田寺が見えています。
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平成19年に一番樋に該当する部分が道路築造に伴う発掘調査で木製樋管が2本見つかったそうです。
堤の造成には敷葉工法のように粘質土と植物の葉等を交互に敷い田様子が確認できたそうです。
池を取り巻くフェンスには池普請の様子が掲げられていました。
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今日の目的。行基の行跡は久米田寺と久米田池の見学を終え、池の淵の久米田公園でお弁当。
春は桜のお花見でにぎわい、池には年間を通じて125種類もの鳥類が確認されているそうです。
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午後は付近の遺跡巡り。
栄川沿いに岡山町からを牛滝川を渡り田治米(たじめ)町の山直(やまだい)下交差点へ。
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府道223号を更に城東小学校西交差点で府道40号を渡りやってきたのが摩湯交差点。摩湯山古墳です。
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この前方後円墳は発掘調査は行われていないけれど墳丘は葺石で覆われ、埴輪、土師器高杯が見つかっておりそれらから古墳時代前期(4世紀後半)の築造のと推定されるそうです。
その時期の和泉地域最大の古墳と言うことで奈良盆地の大王に匹敵する規模です。ここが山直国≒邪馬台国方墳の陪塚、馬子塚古墳が隣接しています。
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摩湯山古墳の東に延喜式内社淡路神社と言うこの土地に似合わない名前の神社がありました。
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聖武天皇の皇女、不破内親王が延暦元年(782)に淡路国に配流され、その後、延暦14年(795)
ここに移り住んだ時、同一緯度上にある淡路島の伊弉諾神宮より分祀されたと伝えられています。
沢山あるレイラインの一つです。廃仏毀釈前には長泉寺が境内にあったようです。
周辺から埴輪片が採集されていることから古墳があった可能性も。
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松尾川に架かる郡界橋を渡って岸和田市から和泉市に入り今日最後の見学地、観音寺山遺跡へ。
泉北郡と泉南郡の堺と言うことで郡界橋と言うようです。
観音寺山遺跡は、和泉市弥生町にある弥生時代後期の集落遺跡です。遺跡は、和泉山地から槇尾川沿いにのびる丘陵の尾根上で見つかりました。標高60~65m、周囲の平地との比高差は約25mという高台に作られた弥生集落跡で、近畿地方の大規模高地性集落の典型例とされています。
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竪穴住居が120軒近く検出されたそうですが、宅地開発が進みその一角だけが保存されています。
また、住居群の周囲には住居域を取り囲むと考えられる濠が確認されたそうです。
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発見調査当時は近畿の弥生時代の大規模集落は平地にあるのが主流で、高地性集落は軍事的緊張を考慮した防御集落と解釈されていたけれど現在では高地性集落も通常の集落の一つと考えられるそうです。竪穴式住居跡が数個並んでいました。
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観音寺山遺跡を見学後、いぶき野一丁目バス停まで歩いて南海バスでJR和泉府中駅へ。
今日のフィールドワークの報告はここまでです。

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