2015.6.13
梅雨の合間のハイキング。葛井寺から古市古墳群を眺めながら道明寺天満宮まで歩きました。
大阪東南部に広がる河内平野は古く飛鳥時代、百済からの渡来人によって拓かれました。

 

今回のコース
  近鉄藤井寺駅~葛井寺~アイセルシュラホール~仲哀天皇陵~応神天皇陵~
     大鳥塚古墳~誉田八幡宮~仲津姫陵~道明寺~道明寺天満宮~近鉄道明寺駅
2回に分けて報告します。

 

誉田(こんだ)八幡宮の境内に誉田林古戦場址の石碑が立っていました。
案内板によると誉田八幡宮の付近は、戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったそうです。
南北朝時代に、北朝方の細川兄弟軍と楠木正行の合戦が、室町時代には畠山政長と義就の間で再三合戦がその後、畠山稙長と義英と合戦後、和議となり誉田八幡宮「社前の盟約」がこの境内で結ばれたそうです。
さらに、大阪夏の陣の折に、大阪方の武将薄田隼人正がここに陣を置き、道明寺近辺で、討死したそうです。
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拝殿の前には左近の桜と右近の橘が。
拝殿は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものだそうです。
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中門の向こうに本殿が見えています。
誉田別尊(ほんだわけのみこと)すなわち応神天皇を祀っています。

 

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絵馬堂。
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安産社。槐(えんじゅ)の木は、「安産木」として、広く一般に親しまれてきました。
後冷泉天皇の皇后が懐妊され、ある夜の夢に木の下に老翁が「安産を願うなら吾を祭るべし」と告げたとか。
その姿が鬼のようだったそうです。木へんに鬼=槐。ここ誉田八幡の枝を伐りとり、産室に吊るし安産を祈念、無事出産と言うような話があるそうです。
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誉田八幡宮の正門は、いま入ってきた旧高野街道(京街道ともいう)に面した東門ですが、南の出入口にある切妻造の立派な四脚門は南大門と言われ元々は八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門だったそうです。
これも豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものだそうですが、豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって最後の仕上げを行ったそうで、切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられています。
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さすがに古市古墳群、あちこちに古墳があります。誉田八幡宮から引き返して今度は仲津姫陵に向かいます。
途中、府営住宅の公園がありました。よく見るとこれも古墳のようです。
住宅建設で消滅してしまったのを元の場所に公園として復活させています。帆立貝型の古墳だったようです。
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小室山古墳が左手に見えてくると
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直ぐ、右手に大きな応神天皇の皇后、仲津姫陵があります。
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古墳をいくつも見学して、いよいよ最終コース。道明寺駅に向かいます。
先ず菅原道真の祖先と言われる土師氏の氏寺だった道明寺に寄りました。山門をくぐって。この山門は旧道明寺境内にあった鐘楼を移築して鐘楼門に改築したものです。
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境内に建っている大師堂と護摩堂です。写真左端に大きな建物の礎石があります。
かつてはもっと大きな寺院だったそうです。
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本堂です。本尊は国宝の十一面観音菩薩立像だそうです。
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菩提樹の木が植わっていました。
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東高野街道を挟んで西に道明寺、東側に道明寺天満宮があります。
明治の神仏分離で二つに分かれています。神門の前に土師窯跡碑がありました。
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本殿、幣殿、拝殿の構造からなる権現造りの檜皮葺きの本殿です。
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本殿前に建つ能楽殿(神楽殿)です。
江戸時代後期に創建され大阪府下では最古のものだそうです。
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近くの三ツ塚古墳の周濠から大小2基の修羅が出土したそうです。
この修羅はそれを復元して、実験的に曳いた時に製作されたものですが修羅保存庫に置かれていました。
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社殿の裏が梅園になっています。梅の実がたくさんなっていました。
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この祠は誰を祀っているのか調べ忘れました。
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大きな木の陰で最後の小休止。
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境内に土師社があります。垂仁天皇の代に野見宿祢が埴輪を創って殉死に代えた功績で「土師(はじ)」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜って以来、土師神社を建て、その後、道明寺の前身の土師寺が建てられ天満宮が創建されるまではこの土師社が本社だったそうです。
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あとは道明寺商店街を通って近鉄道明寺駅に到着です。駅前に立っていた道明寺合戦記念碑です。
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後半はここまでです。歩くのには暑い季節になってきました。

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