令和最初の【THE INTERVIEW】平成を振り返る~プライベート編(1)
日本の情報はプロレス雑誌だけ -海外武者修行とともに始まった平成-
今年は10日間のゴールデンウィークと、大型連休。結局オレが休めたのは2日だった。今回は、天皇の即位と即位の儀式と新元号と、記憶に残る連休だった。
自分の中で平成元年を振り返ると、新元号の平成元年は記憶に薄い。何でだろう。
振り返ると、1989年東京ドーム大会を終え、アメリカのアラバマに帰った時だっと分かった。どうりで記憶に薄い。アメリカ入国でアラバマの団体側のミスで、ビザの再申請手続きに漏れがあり、再入国のが出来ないと言う、大問題でバタバタしていてんだ。国外追放に近い感じで急いでヨーロッパ、ドイツに避難した。
アメリカでの職も失い、最初の海外修行地のオーストリアのオットー・ワンツに連絡を入れて出場交渉。 帰国が決まってた橋本選手からは、「帰国前にヨーロッパで試合をして帰国したい」と…ほとんど観光気分だ(^^)

オーストリアはそれが2回目。本当はリンツから入る予定が、中古で格安で買った、10年落ちのBMWで移動の予定が、走って100kmで車が壊れちゃってなんてトラブルもあった。橋本選手はそのあと凱旋帰国して、オレはウィーンへ移動。本当にいつ帰れるかわからなかったな。でも9~10月ぐらいにようやく帰国の話が出てきたので、アメリカのルー・テーズの道場でキャンプをはって記事飛ばしをしてから帰ってくるんだけど…その時に平成に元号が変わっているって実感はなかったなぁ。オレね、日本の情報って週プロやゴングは送ってもらっていたんだけど逆に言うとそれしか日本の情報がなかった。そこには多分天皇陛下のことは載ってなかったと思うよ(笑)。当時はネットもなかったし、業界内のことや自分と自分の周りのことぐらいで世間のことは全く興味がなかったんだ。会社のことですら興味がなかったからね(笑)。例えば競争心をもって誰かに負けたくない!とかそういう嫉妬とかも男として恥ずかしいと考えてたから、人を見て比べるとかもしなかった。誰かをチェックして、アイツがこんな格好をしてるからオレもしなければ!とかはもなかったね。なにかこう男らしくないと思っていた。そんなところがオレにはあるから周りを見ていなかった。でも今振り返るとあまりにも見ていなかったと思うよ(笑)。いくら海外にいたとはいえ、ニュースぐらいは流れていたとはずだから。
闘魂三銃士のライバルエピソード -日本帰国後の秘話-
日本にかえって来たときはバブルのころなんだけど、例えばデカい取引先をもっている社長さんとかと食事にいったらボーンと小遣いがもらえたり、そういう人たちは行くところ行くところで金をバラまいていた。オレはマルティーナと帰ってきていたから、夜の付き合は少なかったけど、当時まだ独身だった橋本選手や武藤選手はそんな社長にずっと付いて行ってて、たぶん選手としてのギャラよりお小遣いの方が多かった、なんて時代(笑)。
目の前でそんなバブルの波を見ていたけどオレは上手くその波に乗れなかったな。ちょっと飲みに付き合って夜遅くに帰ったりしたら「何してるんだ?」って言われてから。マルティーナがあと2年ぐらいドイツでゆっくりしてくれてたら俺ももう一稼ぎできたと思うよ(笑)。

バブルがはじける頃から新日本も興行路線に変えていくんだけど、プロレス界にもいわゆるタニマチとかが増えてきていた。新日本にも佐川急便がついたりメガネスーパーが参入してきたりと、選手もギャラが上がるのかと思っていたら変わらなかった。契約更新の時にその時は新日本も猪木さんの異種格闘技戦なんかの借金があって返済が大変だ、と。だからもう少し我慢してくれと言われるのが5年ぐらい続いたいたのかな。興行は景気が悪いほど、上向くと言われてるんだけど、その通りにバブルがはじけてもドーム興行は成功してオレらも満足感があった。その頃からかな?契約更新の時にもう少し我慢してくれと言われなくなった。借金を返し終わってたんだよね。オレらは我慢しなければいけないって精神で頑張ってたけど会社はそれを教えてくれなかったんだ。あれほど我慢してくれ!もう少しみんなで頑張ろう!と言っていたのに、いざ終わっても知らせない…それはねぇだろ!と(笑)。本当は10~15年はかかると言われてたのを坂口さんが切り詰めて5~6年で返したんじゃないかな。それは凄いし頑張ったんだとは思うけど、終わったなら教えてくれよ、と(笑)。

平成の前半に三銃士の中でオレが一番最初に結婚して次は武藤選手・橋本選手の順で結婚するんだけど当時みんな川崎近辺に住んでいた。そのころは家族でよく交流していたよ。オレがヒールターンをしてからはそんな機会も無くなったね。もともと自分のことしか考えてなかったオレも20代は寮長とか選手会長とか、会社に向き合う立場になっていた。でもそっちをやっているとプロレスに集中できない。自分の仕事だけをやりたいといった30代は逆に会社と距離ができていた。オレはとにかく客を呼んで客を入れて売り上げをあげ、数字を見せると。それがプロレスラーとして職人として一番の主張だと。色々な文句を影で言うよりも自分で会社に話す。付け加えると「言う」よりも「やる」、そして結果を見せろだった。
会社のことはある程度理解しているけど、レスラーは会社に文句があるならリングで見せる、がオレの主義、オレの正義だと思っていた。例えば100万欲しいと思っても、会社からは200万作ってこいと言われる。それならオレは200万の仕事をしてから交渉する。そうすると会社も話を聞いてくれたよね。
もともと会社はチームワーク、輪ってのが大切、回りも見なきゃいけない。でもマルティーナは違った。「何呑気なこと言ってんの」と。何度もマルティーナには背中を押され、ハードルは上げた、いや上げさせられたな(^^)。

日本人は協調性を重んじるから走らなきゃいけないところを周りに合わせて流しちゃう。走れる時は一人でも全力で走り抜くという考え方は次第に変わってきた。三銃士も誰かがペースを上げれば、他の二人も同じように走りだす。初めのころは二人が先に走りだしてもオレはマイペース。自分は自分と思っていたけど、いつからか横を見て少しペースを落としたり一緒に進もうとする自分がいた。ただ、走れる時はその人が前を走らなければいけない。自分がケガをして遅れても、二人は待たずに先にいく。それが闘争心に火が付き、治療、回復、復帰に繋がる。

三銃士はプライベートでもそういうライバル関係があって誰が家を買ったと聞けばオレも買う。オレが車を買ったら向こうも車を買う、と。
俺はマイペースを良しとする考えだったが、いいライバル関係が三銃士にはあった。
でも、大会ポスターのセンターや大会のメインを張るようになったら、遠慮なんかしちゃダメだ、登れるだけ登らなきゃいけないのがプロレスの世界だったね。

アリストトリストを立ち上げたのが2000年。新日の経験上、勢いを持った選手は団体や枠を飛び出すのがこの業界だったから当時はかなり警戒はされていたと思う。
契約選手が会社を起業して、グッズ関係会社を作るのなんて認められない。それでもブランド、ロゴ、ファッションの会社を起ち上げられたのは新しい交渉の結果、勝ち取ったものだったよ。
新日本はどう思っていたか知らないが、オレが金にもならなかった10年を新日本に育ててもらった恩は必ず返す思いがあったから、仮に新日本が傾きおかしくなった時は体を張って守って来たつもりだよ。
今まで独立、会社を出る選手達は仲間を引き連れ出るケースが多かったけど、それも嫌いだった。やるなら、1人だ。 どうも人と同じ事が嫌なんだよ。

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