実は今回の25周年興業、余り乗り気ではなかった


計画は、去年の秋口から始めてたが



今の興業は読めない。ましてこの時期の自主興業と成ると博打だ、乗るか反るかの覚悟が必要。正直、乗り気でなかった




やる以上は、中途半端な規模の大会はしたくない



5年前の20周年大会が、名前は後付けの大会でしかなかった。この時期、会社との俺の関係は、決して良い関係ではなかったが



と言うか、この何年か、会社と俺の関係は、常にこんな感じか




たぶん2代前のK社長の時代か…三銃士興業プランもこの年かもしれない



話しはそれるが、今回のプロレス冬の時代も長い
 



俺が入門した年も、新日本プロレスの長い冬の時代の始まりで、片道切符の武者修業も経験した


 


 さて25周年興業は、プロモーターとしての活動は、2月、3月から動き出し、手応えは感じていた。ただこの不況のご時世、不安は感じてた



5月、6月には、その不安がいっきに表面化し始め  当初予定していた協力者の4本柱のうち、3本が崩れた。マズイ流れを、感じ始めてた矢先



更なる訃報が





三沢さんの悲報



俺は少なくとも2週間近く、フリーズして興業の事など忘れていたと思う



何で、こんな事が

何で、三沢さんに起こったのか

何で、三沢さんがリングで死ぬんだ

ありえない事だ




今だに、信じられない




業界でも、トップ中のトップ
身体能力も、ぐんを抜いた超一流のアスリートだ




振り返ると、橋本選手も、三沢さんも




彼等は、プロレス業界が自ら招いた、混乱による犠牲者だ




若くして亡くなった同士達を、俺は激務による過労死だと思っている




苦しい経営難が厳しい状況を生み、リング外での沢山の負担が、一番の要因だったはずだ





彼らは逃げ出すこと無く、この困難と向かあいながら




前のめりに倒れたんだと思う




本望だったのか、俺には分からない




二度にわたる、同士達の別れを見て




改めて、生きる事の大切さを知った



若くして亡くなった2人に、残った俺が出来る事は、二人を称える事ぐらいしか出来ない




俺は、橋本選手の時も関係者に言ったが



彼ら先人の意志を継ぐなんて事は、誰も出来ないし、すべきじゃないと



馳せる思いはあっても、同じ事は出来ないのだから


無理にやる必要はないんだと




亡くなった人の人生は、亡くなった時点で終わっている






興業も、そんなこんなしているうちに、キャンセルも出来ない時期になっていた



気持ちを切替え、前に進まなければ潰れるだけだ



大会概要の決定、交渉等。 時間にそれほど余裕が無くなり始め



行動、選択、決断あるのみ



次回は、そんな話しをしようかな




 大会テーマ曲の楽曲提供を探していたはずが



いつの間にか、作詞と歌まで歌わされてしまった話しとか