レンジならもうすぐチンという地球 大阪 食いしん坊
この句がピンとくる日々が続いている。
今日の毎日新聞の記事で注目したのは、
「現代をみる」栗原俊雄
大日本帝国 国民の戦争責任
である。
かの戦争に、国民は戦争責任があるだろうかと問うたものだ。
抜粋すると、
有権者が選んだ政治家が首相になり、その首相が戦争を主導したのであれば、
国民全体の一部とはいえ、選んだ有権者の責任は問われるべきだろう。
だが実際は違った。帝国では選挙を経ていない「政治家」がしばしば首相や
閣僚になった。
(中略)
閣僚の中に衆院議員がいれば、わずかでも「民意」を制策に反映できたかもしれない。実情はどうか。
41年10月に近衛内閣が総辞職した後、昭和天皇に選ばれて後継首相となった
東条英機は陸軍軍人。帝国を破滅させることになる太平洋戦争に突き進んだ
時点の東条内閣に、衆院議員は一人もいない。
帝国の戦争は、国民による選挙を経ていない為政者たりによって遂行された。
(中略)
戦時下で「戦争反対」と公言したいたら逮捕されただろう。
殺されていたかもしれない。
そんな条件下で、国民に「戦争責任」を求めるのは酷に過ぎる。
(毎日新聞より抜粋しました)
原爆症などの保証がいまだに、難航するのは、政府の先の戦争は、国民にも責任が
あるとする考えに対して、異論を唱えた論になっている。
私は読んで、東条英機を後継首相に選んだ昭和天皇にも責任があると考える。
彼は、戦後、その責任を取るために、アメリカのマッカーサー元帥の前に
死刑を覚悟で対面した。
が、アメリカ側は、もし、死刑にしたならば、日本国民を抑えることはできない
だろうという判断をとった。
もし、次の戦争があるとしたら。今政府は、着々と準備をしているが。
私どもは、選挙権を持っている。
そのことを忘れてはならない。
未来は、私どもの選択にかかっている。