住んでいるご近所付き合いは、ほぼ、ない。
二週に一回くらい、知人たちの顔を見に行くくらいだ。
あとは、断固、お付き合いなし。
向こう三軒両隣とは、仲良し。
と言っても、ときどき、いいなと思う新聞をポストに入れるくらい。
子どものことを相談された何年か前からの習慣だ。
その子どもも、ずいぶん、大きくなった。
もう心配もない。
断固、付き合わないことを思い悩んだこともあったが、
今は違う。
町内は、住むところ。家さえ、ゆっくりできたらいい。
なかよくするのは、町の若い人たちと。
そういう風に二極化したのだ。
おじさん、おじいさんのつきまといも、もう、うんざりだし。
おばさんたちの意地悪にも、うんざり。というか、理解不能。
今まで、お菓子を届けたり、花を届けたり、新聞を届けたりしていたけど。
意地悪されてまで、する必要はない。
もっぱら、朝早くの散歩のときの山道の掃除のみ。
付き合わない代わりに、掃除だけはしようという魂胆である。
誰にも会わない山道を掃除している。
太郎が嫌がること、嫌がること。
土手の方に引っ張っていくので、不愉快なのである。
が、そのことによって、圧倒的な信頼と、人と付き合わないことで、
時間を得ることができた。
人間としての信用と、自分だけの時間。
そして、町での若い人たちとの交流。
余計な神経を遣わずに、適切な効果がある生活ができていると開き直った。
人間は開き直りが大切だ。
どう思われているかしら?と心配していたら、身が持たない。
勝手にしろと。
悪口を言いたければ、言っていればいい。
痛くも痒くもない。
差し歯だけは治したいが。
今週は、歯医者に行く。
差し歯を治すことを言うつもりだ。
人は、言いたいことを言っていい。
言いたい者には、言わしておけばいいし。
自分が言いたいことは、はっきり、言っていい。
NO!と。
貴方も私のこと、嫌いだろうけど、私も貴方のこと、嫌いよと。
そして、ある時は、YESと言える人に囲まれて、ニンマリするのだ。
これが、私の生活になった。