家のあちこちを少しずつ、整えて。

花を生けかえたり。

 

私から離れていった人々は、私が凄い時間を掛けて、相談にのってきていた人たち。

子どものいじめで、目を殴られて、怪我をし、裁判になった後輩。

近所の若い人は、子どもがやはり、学校のいじめのことで。

 

ずっと、電話でしたが、相手の話をうんうん、と聴くことは、忍耐がいることです。

そして、相手は、そのことに満足はしないのです。

 

最後は、後ろ足で、砂を掛けるように、目の前から去りました。

ある場合は、あまりの対応に、私が怒って。

 

あれから、何年も、何十年も経ちました。

彼女たちは、どうしているのでしょうか。

 

人に満足しているでしょうか。

なにか、してもらったとき、「ありがとう」と言えているでしょうか。

 

まったく、わかりません。

 

が、思いがけないことに、相方が、「◯◯さんは、どうしているかな?」と

聴いてきたのです。

 

私は、創価学会の冊子と共に、短い手紙を入れて、送りました。

 

私の人生がこれからどうなるか、わかりませんし、

彼女たちの人生がどうかもわかりません。

 

ただひとつ。

私は、駒を投げたのです。

 

忍耐と呼べるかどうか、わかりません。

ある意味、彼女たちには、彼女たちの人生があると醒めているところもあります。

そして、これから、人生が交わるかどうかもわかりません。

 

ちょっと、意地悪な見方をするならば。

どんなになっているだろうという好奇心もあるのだと感じています。

 

人は、自分の道を歩くしかありません。

その道が平坦ではなくても。

歓びをもって。

口笛を吹きながら。