新しい花屋さん「olde」さんで、紫系統の花を買い足して、楽しんでいます。

 

簡単な夕食を食べていて。

「意地悪の系譜」ということを思い出した。

 

私は、にこやかな外見にかかわらず、どこか、意地の悪いところがある。

さてはて、これは、どこから来るものか、と考えていた。

特に、不遇な生い立ちではない。

普通の家庭だった。

が、思い出すことがある。

 

あれは、私がかなり、大きくなっていた頃。

会社員だったかもしれない。

 

例えば。

台所で、夕飯を食べていて、母が外に灯油を取りに行く。

そのとき、台所の出口の戸を空けたままにして、出ていく。

「寒いから、締めてよ」と言うと、母は「外に出ている私の方がもっと、寒いのよ」と言い返してきた。

 

例えば。

私は、その頃、忙しく、休日に遊びに行くということは、稀だったのであるが。

たまに日曜日、友人との食事に出かけるとき。

母は、必ず、家事をやらせた。

台所の床拭きなどだ。

彼女の言い分は、「私は、これから、ずっと、家で家事をするんだから」と

いうもの。

私としては、「楽しんできてね」と送り出してくれたらと思ったものだ。

 

いつも、自分がいかに大変か、子供に自覚させることに腐心していた。

 

今にして、思えば、彼女は、家事がキライだったのだろうと想像する。

 

そして、いつも、自分がどんなに子どもたちに尽くしているかを説いていた。

「こんなにやっているのに」と愚痴るわけだ。

 

私としては、手を抜いたり、遊びに行ったりして、あの恩着せがましい子ども孝行をやめてもらって、楽しんでくれたらと思ったものだ。

 

その母を大きく上回って、意地が悪かったのが、父の母、母にとっては、姑になるおばあちゃんだった。

兄は可愛がられたが、私は、どこの子かという落差があったので、おばあちゃんには、まったく、思い出がない。

 

母に言わせると、いつも、「金がにゃあわ」と言って、金を無心するようだった。

 

そして、対立も甚だしかった。

 

母は、長男の嫁ということで、姑の老後を見るつもりだったようだが、それは、頓挫した。そんな仲ではなかったからだ。

 

結局、兄弟4人の話し合いで、父の妹がおばあちゃんと全財産を引き取った。

その後、すぐ、亡くなったと記憶している。

 

兄は、大変可愛がられたので、入院先まで、見舞いに行ったが、私は行かなかった。

 

つらつら、思い出すに。

意地悪の系譜というものがあると思う。

 

そして、これが、私の肉親の大切な思い出となっている。

そんなことしか、思い出さないのだ。

温かい思い出ではないが、唯一、思い出すことだ。

 

私は家事が好きだし、人が楽しんでいることを喜ぶことができる。

が、底意地の悪さは、自分でも感じるところだ。

 

好むと好まざると。