繁盛している、美味しい定食やさんがある。

が、注文を聞くおばさんは、しばしば、頑固な一面を見せる。

客(私)が、席に座り、メニューを見て、決めて、頼もうと思って、「すみません」と声を掛けても、返事もしない。

え?という感じだったが、先日、他の旅の客のようなご婦人が「すみません」と声を掛けても、無視をしていた。

彼女には、ルールがあって、温かいおしぼりを取り出して、出してから、注文を聞くというものだ。それまでは、聞かない、聞こうとしない。

ちょっと、待ってくださいねとも言わない。

あれは、なんかなあと思う。

上諏訪の地元のお店は、しばしば、このように、客よりも、自分優先だ。

 

お客さまは、神様です、というのは、極端だが。

 

客と対するときは、感じよくと願うのは、贅沢だろうか。

 

私は、こういう場合は、言わない。

感じ悪ければ、行かなければいいのだ。

選択権は、こちらにある。

 

私も奇行によって、しばしば、あの人はねえと言われているのは、間違いない。

 

太郎が人になったなら、人気があることだろう。

犬の今も、人気があるので。

 

条件は、おとなしいこと。

吠えないこと。

気分の上下がないことだろう。

彼は、いつも、穏やかなのだ。

 

私は、人付き合いは、手放したところがある。

適当にしている。

昔は、真剣なあまり、よく、忠告をしたものだ。

ある意味、真面目だったのだろう。

が、人はしばしば、忠告など、聞くつもりはなかった。

 

人は、進言など、聞かない体質にできているのだ。

で、齢を重ねると、老いた裸の王様になるのである。

 

だが、人の話を聞く人を見たことはないというのが実感だ。

かく言う私も人の話は聞いていない。

聞いているような顔をしているだけだ。

ま、お互いさまと言えば、言えるだろう。

 

人は、もともと、耳がふたつなど、いらない。

口だけで、暮らしている。

しゃべり倒して、一生を終える。

 

せめて、それならば。

いい言葉を話すがいいだろう。

美しい言葉を話すがいいだろう。

 

もし、その言葉を聞いてくれる人がいるならば。