庭の花の枯れたのを摘んでいて、採ってしまった花を飾って。
母を理解したのは、皮肉なことに、癌の末期だった。
外科の主治医は、手術を主張したが、末期の場合の手術の危険性を知っていた私は、父、兄の反対の中、強行に、手術を回避しようとした。
主治医に、「手術をして助かる見込みは、何%ですか?」と詰め寄った。
答えは、0%。
1%でも助かる見込みがあると思っていた父もそこで、断念した。
その後、自宅にという医者の判断に唖然とした。
手術をしない患者は、置くことはできないと言う。
自宅で療養中、処方された薬の重篤な副作用で、脳内皮症を患い、食べることはできるものの、目を開けることもなく、話もすることができなくなった。
もちろん、亡くなったあと、主治医に、手紙を書いた。
「もし、自分の母親に対して、そのような処方はできるか」と。
動転した父がその主治医に、処方を頼むと、また、
その副作用のある薬を出してきたからだ。
母が72歳のときのことだ。
長寿の家系だったので、早逝だった。
そのとき、私は、どんな姿でも長生きをしてもらいたいと切に願った。
そして、母は、家族に迷惑をかけたくないんだなと感じた。
口をきけなくなくなって。
初めて、母を理解できたのだ。
話ができるって、なんだろう?
理解するために私たちは、話をするのではないだろうか。
が、口をきけば、その言葉に、振り回される。
言葉って、いったい、なんだろう?
世界では、諍いが止まない。
殺し合うことも辞さない。
話ができるのに。
優しい言葉をかけることはできないのか。
振り返ってみれば、私も優しい言葉をかけることは、ごく、限られている。
そして、しばしば、あたたかい言葉をかけるのは、
口のきけない鳥や、犬だったりする。
彼らを見ていると、あたたかい気持ちになる。
何も話さないから。
私に言葉をかけないから。
人であることが素敵だよ、と言える世界になってほしいし、自分もそうなれたら、
いいなと思っている。