最近、二人の友人とケンカ別れした。

こちらが一方的に怒ったものだが。

私にとっては、それはやってはいけないということをやっていた。

二人とも、なぜ、私がこんなに怒るのか、わからないでいるだろう。

一人は、長い抗議の手紙を書いてきた。

そのような言われ方をする筋合いではないと。

私は、こんなに、みんなから、賞賛されていると。

その手紙を読んで、安心するどころか、かえって、心配になったのが本音だ。

ふつう、自分の自慢話はしないもの。

表彰されたとか、誰それから、こう言われたとか。

それは、私は言わない。どんなに非難されても。

私は返事を書いた。

これが最後であろうと思って。

 

手紙の通りなら、私が何を言っても、気にすることはないではないかと。

ただ、やり方の正しいルールだけは書いておいた。

 

そして、もうひとりの友人は、とても、いい人だ。

が、思慮がない。

どうしたら、自分の目標を達することができるか。

また、人を幸せにできるかという構想も悩みもない。

言われたことをやるだけだ。

だから、何も相談できない。

どうしよう、かねえということが話せない。

私は、この関係はつまらない。

 

世界が揺れ動いているときに、そのことにも気がついていない。

 

私は、どうしても、いっしょに過ごすことができない。

たわいもない話だけしているのは、苦痛だ。

 

お気づきだと思うが、二人とも、創価学会員。

 

彼女たちは、自分のルールで、道を歩いて行くだろう。

怒って地団駄を踏む私を変わった人と思って。

だけど、いつか、気がつくはずだ。

 

理想がある人となかった人の現実の違いを。

信仰は、人のために生きてこそ、信仰だ。

 

そんな激動の日々の中で。

一つのよいことがあった。

 

天敵が、私の話で、心が動いたというメールをくれた。

彼女を動かすのは、ほぼ、諦めていたので、こんな嬉しいことはない。

多くのものを失い、かけがえのないものを得た。

それは、信用だ。