最近ずっと
エッセイを読んでいるので
その影響をもろに受けて
ブログの文体も変わっている。
 
影響を受けやすい笑
 
 
 
 
梨木香歩さんの
『やがて満ちてくる光の』
を読んでて
 
昨日涙したところが
 
 
 
 
一人の人間のなかには、
八十歳の魂も八歳の魂も
同時に存在している。
 
ロシアの民芸人形マトリョーシカのように、
自分の中に過去の自分も未来の自分も
入っているのだ。
 
歳を重ねたかいがあったと思うのは、
正しく扱われそこなった幼い自分に、
声をかけられる自分を見つけたときである。
 
 
 
(中略)
 
 
 
けれど、過去と未来は、年齢にかかわらず、
本当はいつも会いたがっているのかもしれない。
 
過去の自分の問いかけに答えてやれるのは、
その問いが生まれた状況を本当に分かっている自分、
それもすべてのことを俯瞰して見られる未来の自分しかいない。
 
それを可能にするのも不可能にするのも、
本当はきっと、今の自分次第で。
 
 
 
 
 
 
私は弔辞を務めさせてもらうくらいには
仲の良かった友人を
高校の時に自死で亡くして
 
 
自死であったがゆえに
学校にカウンセラーが来て
定期的にカウンセリングを
受けさせられるようになった
 
 
 
 
その友人が亡くなる少し前、
”死んでやる騒動”を起こした女がいて
(当時は友人の距離感でいたので
その騒動に付き合わされた
 
 
その騒動が無ければ
亡くなった友人も
もしかしたら助けを求めやすかったかもしれないのにと
思っていたところ
 
 
その女が
私よりカウンセリング時間が長かったと
自慢してきたことがあり
 
 
 
 
私は友人の死を弄ばれた気がした
 
 
 
 
こいつにとっては誰が死んでも
自分の悲劇を飾るための
アクセサリーでしかないんだなと
 
こいつこそ死ぬべきだったし
生きている価値ないだろと思った
 
 
 
 
 
想像の中では
なんどもなんども
殴るなり蹴るなり平手打ちするなり
カッターを突き付けるなり
してきたけど
 
実際は茫然として
ただ泣きながら
カウンセラーのところに駆け込んだ
 
でカウンセラーのことも
私はどうにも嫌いだったから
二重に恥を塗った気分でいる
 
 
 
 
 
私は想像の中で
まくし立てて
殴って蹴ってとするんだけど
 
実際はできなかったから
 
想像する時に同時に存在するのが
 
「なぜそうできなかったのか?」
「なぜ何も言い返せなかった?」
「なぜせめて引っぱたくくらいできなかった?」
 
という自分から責められる感覚
 
 
 
 
 
このエッセイの文章を見た時
 
この自分を
 
この
殴ることも蹴ることも引っぱたくこともできず
何も言い返すこともできず
嫌いなカウンセラーのところへ
駆け込むことしかできなかった
 
当時の私とこれまでの私に
「正しく扱われそこなった幼い自分」を
 
今の私が許してもいいのかもしれないと思った。
 
 
 
 
 
私は怒り方を知らなかったし
怒っていいことも知らなかった
 
人を嫌いになっていいことも
嫌いな人間に冷淡にしてもいいことも
知らなかった
 
 
 
 
当時取れた精一杯の行動が
泣いてもいい場所に駆け込むことで
 
そこでたぶん
落ち着くまでは泣いたはずだから
 
私は「泣かせてあげる」ことはできた
 
当時の私は

当時の私ができる精一杯をやった

 

 

 

 

 
精一杯をできたのだから
それでいいよ。
 
というのが
今の私からかけられる精一杯の言葉
 
 
 
 
また歳を重ねたら
もっと優しい言葉が出るのかな
 
 



 
 
 
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