平成30年11月11日
新しいまな板を買った。100均のペラペラまな板では使い物にならなかったからだ。
ずっと読みたかった高野悦子の二十歳の原点を買った。ただの日記がベストセラーとなったわけを知りたかったからだ。
夕飯を食べに松屋へ行った。高校生が4人、カウンター席で食い終わっているにも関わらずゲームをしながら居座っていた。クソガキがクソガキたる所以はここにあると思った。
焼きキャラメルプリンタルトを買った。焼きキャラメルプリンタルトと書かれていたが、本当はただの焼きキャラメルチーズタルトなのではないかと勘ぐった。
家に帰って食べたらちゃんと焼きキャラメルプリンタルトだった。
がっかりした。多分、焼きキャラメルチーズタルトを欲していた。
平成30年11月12日
やはりどうにも焼きキャラメルチーズタルトだと思い込んでいたものだから、箸が進まず。そんな不憫なプリンタルトを見ながら、私は少し考え事をした。
プリンを人で例えるならば、キャラメルの部分が外見にあたり、カスタードの部分が内面的な部分にあたるのではないか。キャラメルの配分が多すぎてもそれはくどく、カスタードの配分が多すぎてもそれはくどい。全体的な印象を考慮しても、やはりキャラメルが多すぎては品がなく、カスタードが多ければ華を感じない。
食べ方にも人の表れが出るのかもしれない。一口目にキャラメルを食べるのか、一口目にカスタードを食べるのか。それとも両方すくい食べるのか。
もし私がプリンだとすれば一体どのようなプリンとなるのか。また少し考えた。少し考えたら容易に想像することができた。
スプーン一杯にも満たないプリンだ。カスタードは空気の穴が目立ち、焦がしたキャラメルがほんの少し添えられている。ああ、情けない。なんと情けない出で立ちなのだろう。ヘッヘッヘ。
最近は何かを考える時間というものがあまりない。考える時間がないということは社会に溶け込んだ生活を送っているということだ。それはつまり一人ではないということ。
仕事をしていれば、一人の時間というものの方が少ないわけだが、ただ大衆の中に混じっていると、私は私を完全に見失ってしまう。日常の中に私は存在してない。資本主義社会の一部と化している。私には力がないからだ。そうなると私は一体何のために生きているのかとうとうわからなくなってしまう。
もちろん、これは資本主義社会を否定しているわけではないし、私一人が抜け出して、のうのうと生きてやろうと策を考えているというわけでもない。どうしようもないことで、私には力があるわけでもないのだから、本当にどうしようもないことなのだ。
いつだって何か発起してやろうと企てるも、それを行動に移すことはなく、ただああだ、こうだとたった今のように自分に対してでもなく、誰に対してでもなく、漠然たる不満を、不明瞭な境界線の外へと投げ込む。ああ、全く本当にどうしようもない。何一つはっきりとしていないのだから。存在すらすれど存在していない。魂は五分もあるのだろうか。誰の世界に私は今存在しているのだろうか。本当の生きている価値なんてものは大多数の人間には無いなんてことはきっと誰しもが気がついているのだろうけれど、皆はその事実をどう克服しているのか。忘れてしまっているのか。自分は違うとでも思っているのだろうか。
こういった非生産的で生きるに非効率な考えが私の意識を駆け巡っていくのは低気圧からくる脳への負荷がそうしているのかもしれない。それとも孤独がそうした考えにも達しないこの意識を生み出しているのかもしれない。孤独を愛したり孤独を除け者にしたり、本当に私は一体何がしたいのだろうか。私は私のことをよく理解できていないし、そんな状態なのだから誰も理解することができない、それはきっと今度も続いてくのだろう。と言ったものの、やはり他人を理解する必要は無いのかもしれない。いや、もともとできないのだろう。長い人間の歴史がそう語っているんだもの。ただ皆、あらゆることに目を瞑って生活を営んでいる。幼き頃より教育され、認識の根底にこびりついた協調性という名の方向指示器に従順なのだ。それで社会は回っている。
無駄を削ぎ落としたい。しかしこの無駄を考えているこの瞬間こそ、本当の私が存在している一瞬であり、完全に削ぎ落とし切ってしまった時、その微々たる本当の私というものは息絶えてしまう。矛盾を吸って吐いて生きているらしい。はあ。