ヘーゲルの観念の弁証法はまだ有効だと考えます。では歴史哲学はどうか? ご承知のようにヘーゲルは「世界史」に段階の概念を導入しました。西欧近代を中心にそれ以前をアジア的段階とした。アジア的段階以前はヘーゲルによれば未開原始の状態ということになる。この状態は人間にとってほとんど有意な「意味」も「価値」もないものとヘーゲルは論じました。ここがヘーゲルのクリティカル・ポイントではないでしょうか? 吉本隆明氏はこのヘーゲルの史観を拡張(転倒、敷衍)することによってアフリカ的段階を世界(人間)史の基層に位置づけた。アフリカ的段階をたしかな手応えのある有意な意味も価値もある豊かな人間の時空間として改めて措定した。つまりこのアフリカ的段階の導入は人間(人類)の史観の幅を過去にむけて押しひろげたのです。人間の精神世界の幅を近代・アジアの価値観とは次元の異なるより高く深く広いところまで押しひろげたわけです。このことは同時に同様に人間(人類)の未来にむけても世界(人間)史を押しひろげたことを意味します。まさしく弁証法です。弁証法的に考えればです。つまり人間はこの先なんらかのかたちで始原の人間を取り戻すかもしれない。はたしてそれを「人間」と呼ぶかはおくとして。
さてわたしはこの吉本隆明氏の史観の拡張によるアフリカ的段階(過去現在未来の)という概念とミッシェル・フーコーの所謂「人間の死」とを結びあわせて考えたいのです。吉本隆明氏によろうとフーコーによろうと近代の人間=人間の近代はなにやら行きづまりのようにみえる。フーコーをさらにおし進めたジル・ドゥルーズの思考をも含めたのなら尚更に。
吉本隆明氏を横軸にフーコードゥルーズを縦軸に。この三者の思考に依拠しつつ、ここから先はわたしひとりで考えます。誰にも頼らずにひとりきりで考えます。
神は死んだ ニーチェ 19世紀
人間は死んだ フーコー 20世紀
猿は死んでいない 戸川長次郎 21世紀
「勝手に決めろ、movie! by うるうるクン。」2014年10月20日ブログ記事より転載。(有許諾)タイトル変更。一部修正。
#猿と人工知能と握手する日に人間はいない
God died.Mankind died.but,Monkeys still live. Chojiro Togawa
