ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -38ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 先々月だったか、新しい組閣によって女性閣僚がたくさん誕生した。「女性の活躍の場を広げる」ことを推進する内閣にとっての目玉の人事であったはずなのだが…、立て続けに女性大臣が2人、野党の追及によって辞任に追い込まれた。選挙区内の夏祭りで配ったウチワが問題視されたり、観劇料の金額についての記録が帳簿と合わなかったりという、まあ政治家の立場としてはよくはないことには違いないが、しかし閣僚としての政策とは直接関係のない部分で足を引っ張られたカタチである──それにしても、そういうことがなぜ大臣になった途端に明るみに出るのか、なぜ大臣になるまで表面化しなかったのか、今回だけでなくこの種の問題が発覚するたびに疑問に思ってしまう…。
 同じその時期、中東ではイスラム国による情勢不安、日本近海でもサンゴの密漁(ここまで大っぴらだとすでに“密”漁ではないわなw)船が中国から殺到してる状況、日本国内でもテング熱が一段落したと思ったらエボラ出血熱の感染が疑われる例がいくつか…、そんな時に日本の国会は「あのウチワはダメだろ」「議員を辞めろ」「任命責任ガー!」なのである──あのぉ、今そういうことやってる場合なのでしょうか? それって密漁対策や疫病対策よりも優先順位高いことなんですか?
 消費税率の10%への引き上げは先送りされるのされないのという話が出ている。来年度以降を見越した長期の予算計画はこの引き上げを見越して立てられているものであり、引き上げが先送りとなると、それら経済計画が根本から見直されなければならなくなる。来年度の話であるから悠長な話ではない、危急的にだ。そんな中、今年度のGNPが下がったとか何とかと大々的に報じられて、アベノミクスは失敗だったんだと騒ぐ人たちも多数出てきている──
 そして、そんな中、首相本人よりはむしろマスコミの先走りによって広まった解散ムードは報道に事実が追いついていくカタチで高まっていき、どうやら来月には総選挙が行われるとか何とか──税収入に狂いが生じるがゆえの経済計画見直しが危急的な上述の状況の中、選挙に膨大な金を使おうというのか!
 ──ここ数ヶ月くらいのそれらの動きの多くは、野党が騒いで与党を責めるカタチで引き起こされてる面が大きいと言えよう。決して日本国をよくするために与党にもっとしっかりしてもらいたいという叱咤ではなく、足引っ張って引きずりおろすためだけとしか思えない状況である。そんな状況で、解散総選挙の方向で進んでいるわけだが…、野党各党はこれで与党のイメージダウンによって自分たちが有利だなどと単純に思ってるのだろうか? …と書いてて「あれ? 前にも何回か同じようなこと書いたな」と思えてきた。実際この『グミシン』コーナーの過去記事でも似たようなこと書いてるわ。その頃から、政権奪取して1期でも下野を経ても何も変わってないじゃん、何なのこの学習能力のなさは。
 これも前に書いたことだけど、間違いなく野党各党が与党をアシストしてるよ。上述の観劇料の件で辞任した女性大臣が交代した途端に後任大臣のSMバーの件を追及した女性野党議員の「口にするもけがらわしい場所」はマイノリティへの差別心を不勉強による無知(SMバーは決していかがわしい風俗店ではない)によって晒したカタチで、確実に有権者の一部を敵に回してしまってるし──とまあこんな状況でおそらくは来月に国民の審判が問われることでしょう(という書き方してるのは現時点でまだホントにそうなるのかどうかハッキリわからないから)が…、おそらく多くの有権者たちは、与党よりもむしろ野党各党の方に幻滅してると思いますから、また野党のアシストのおかげで与党が圧勝、てことになりそうですね。

 









 中学3年以来のメガネっ子の僕。数年前に新たにメガネを作り直した時のこと。新しいメガネをかけて新聞を読もうとしたら…、字がぼやけてしまって見づらい。「あれ、ちゃんと度を合わせてもらったはずだし、実際遠くの風景はよく見えるのにおかしいな」と思いながら少し新聞を目から遠ざけてみると…、文字が見えるようになった──ついに僕にも来やがった! そう、老眼である。
 近視の持ち主は年を取るとちょうどよく見えるようになってメガネが要らなくなると思ってる人がいるようだが…、残念ながら近眼の人にも老眼はやってくるのである。近眼はそのままで──近視や遠視は眼のレンズの屈折率が異常で、焦点が網膜上で合わない現象で、これに対して老眼は加齢によりレンズの弾性が失われて近くのものを見る時の調節ができない現象、起こる仕組みが違うので近眼と老眼は併発し得るのである。メガネっ子にも老眼はやってくる──
 年齢を取ってくると身体のいろんな部分で今までできたことができなくなったり不便を感じるようになる。男性が前立腺肥大で残尿感を覚えるのもそうだし耳が遠くなってきたり歯周が弱って歯が抜け落ちたりするのもそう。一般的に病気として扱われてることでも実は普通に老化現象だったりする。白内障なんかも早ければ20代くらいから徐々に周縁部から始まり加齢とともに眼の中心部まで進行するというし。
 癌にしても、身体の臓器に長期にわたって刺激を与え続けることにより徐々に遺伝子が傷ついて細胞が突然変異する現象であり、ある意味これも老化現象と言える。人間の寿命が200年くらいになったら死因のほとんどは癌になると言われている。実際、寿命が延びるに従って死因に占める癌の割合は高まっている。それまで癌になる前に他の病気にかかってバタバタ死んでた人たちが癌になるまで死ななくなったからである。認知症もしかり。寿命が延びて高齢化が進むにつれて、老化現象という名の(医学的見地から見た)病気は今後ますます増えていくことだろう──
 てか、老衰にしたって加齢による老化が原因で各細胞や各組織の能力が低下して多臓器不全の状態になることであり、老衰死の認定に医師(監察医でない通常の)の診断を必要とすることを考えればこれもある意味病気と考えることもできるのではないだろうか。そう考えれば、いわゆる老化現象というやつはいずれも病気と紙一重と言えるだろう──とりあえず、いわゆる老眼と呼ばれるところの症状については、眼の持病がひとつ増えたと考えることにしよう。この病気は進行性のようで、初めて症状を自覚した数年前に比べて現在の方が確実に症状は悪化している。どうやら不治の病のようなので、この先の人生、この病気と上手く付き合っていくことを考えなければ…、なんてね。
 
 









 もう2ヶ月近く前の話になるが、駅の点字ブロックの上を歩いていた盲目の女子高生の白杖が誰かとぶつかってしまい、杖につまずいて転倒したその相手がその女子高生を後ろから蹴飛ばして怪我をさせるという事件があった。このニュースが報じられた時、もちろん世論の大多数はこの女子高生に同情し、彼女を蹴飛ばしたその誰かに対して激しい非難の声を上げたものだが──その後の報道で、ぶつかってきた相手が見つかってみると知的障害者で会話もままならない状態と報じられると非難の声はトーンダウンし、その後この件が報道されることは全くなくなってしまった。
 駅のホームやコンコース、それに道路の歩道上に埋め込まれた黄色い点字ブロックは、言うまでもなく目の不自由な方のために設置されたものである。交通信号の『通りゃんせ』などのメロディ同様、目が不自由でも自立して社会で行動できるようにという、バリアフリーのための設備である。車椅子の方のためのスロープやエレベーター、あるいは街中の至る所に設置されたAEDなどと同じである──
 そのバリアフリー設備上で、それを必要としてる人が利用を妨げられた上に危害まで加えられたわけだが、その危害を加えた側も別の障害を抱えていて危害自体もその障害の為せる業ということになると「善悪の判断できない者を街へ出すな」などと言ったのではそれもまたバリアフリーに反してしまうわけなのである。もちろん程度問題もあろうけど、その加害者の場合だと普段からそうして街を出歩いていた(その駅は30万都市の代表駅で乗降客も乗り換え客もかなり多い)のだからそこまでの重度ではなかったのであろう。
 ずいぶん前にこちらでも書いたように、知的障害者の少年にいきなり車の前に飛び出してこられて肝を冷やしたことがあり、その時に「道路交通の場では知障も健常もない」なんて書いたが、とは言っても彼らを外に出さないわけにはいかないし、外に出てる以上、車の側もそれを想定して注意しなければいけないわけだ。そうでなければバリアフリーにはならない──しかし、知的障害者のバリアフリーを守ることが視覚障害者のバリアフリーのネックになってしまうのだとしたら…。もちろん今回が視覚障害者だったということであって、同様のことが肢体障害者や聴覚障害者との間でも起こりうるわけだ。となると一方のバリアフリーを守るためにもう一方のバリアフリーを犠牲にしなければならないのか? 今回のケースの場合「互いに気をつけ合って相手を思いやろう」は通用しないのである。そもそもその“思いやる”手段が阻害された状態なのであるから。
 …で、皆さんはこの話の僕の結論は「不可抗力だ、どうしようもない」だと思いますか? 違いますよ──上に書いたでしょ、その駅は乗降客も乗り換え客もかなり多いって。防ぐことができたのは当事者以外の周囲の人たちでしょうよ、みんな何見て見ぬふりしてるのさ。

 









 大相撲ではその昔『引退』というのは力士が単に相撲取りを辞めるだけでなく、その後年寄名を名乗って日本相撲協会の親方として協会の仕事に従事することを指していた。相撲協会を離れてちゃんこ店など他の職業につく場合は『廃業』と呼ばれていた。この『廃業』の呼称が廃止されたきっかけは、当時現役幕内力士だった旭道山が衆議院選挙に立候補するに当たって力士を辞める際に「『廃業』という呼び方は何か切り捨てるみたいで印象がよくない」ということで「今後『廃業』という言葉を使わないようにしよう」となったのだ──これにより、親方になるか協会を出るかに関わらず力士を辞めることをすべて『引退』と呼ぶようになった。
 相撲界以外の、例えばプロボクサーやプロレスラーなどでは昔からそうだったし、芸能界でも歌手やタレントが芸能活動を辞めることはおしなべて『引退』と言われている。相撲界の方がむしろ特殊であり、それが一般的な基準に合わせたカタチになったにすぎないわけだが…、しかし幼い頃からの筋金入りの相撲ファンで物心ついた時から相撲を通していろんなことを覚えてきた身には、新弟子で初めて序ノ口に上がったとたんに部屋をスカシたレベルの力士まで『引退』と呼んでしまうのには違和感を禁じ得ない──それまでも10代のデビュー2年目程度のB級アイドルとかが「芸能界を引退します」というのは相当に違和感があったのだが、力士の世界までそうなってしまったのか…、という感じなのである。
 旧来の相撲界における『引退』は上述の通り「後進に道を譲って指導支援していく」的な意味合いを指している。一般の会社であれば社長が会長に退いて経営の第一線を後任の社長に任せるみたいなものだろうか。辞表を提出して退職するのとは明らかに違う。
 さらに言えば後進に譲るべき“道”を先に作って歩いてきた者のみに許される呼称こそが『引退』なのではないだろうか。芸能界の例で言えば、スタートして一時代を築き、芸能活動を辞めた後にプロダクションを自ら設立、もしくは所属プロダクションに社員として残って後輩タレントを育成、そのために自らは芸能活動の現場から退く。それが『引退』というものであって、ヒット出ないまま2年もせずにタレント辞める、なんてのは『引退』と呼ぶべきではないように思うのだが──
 ──中学や高校の部活もそうだったでしょ。3年生で卒業近くなって部には所属したまま選手を辞めるのが『引退』で、下級生のうちに部を辞めるのは『退部』。これ同じ言葉でひとくくりにしちゃダメでしょ? 『引退』する資格があるのはその道である程度の実績を残しており、かつその後に下の者を指導支援していける人だけだと思うんですよね──まあ、国語辞典的には『引退』という言葉にそこまで厳密な定義はないので、あくまでも僕個人の感覚的なものではあるのですが…。

 









 北関東3県(茨城・栃木・群馬)は、いろんなバラエティ番組でよく、不人気ワースト3県などと揶揄されている──都心から見て、通勤するには遠すぎて、休みを利用して旅行するには近すぎて、って感じで中途半端なのが人気の面でネックになってるのだろうか。筑波山や日光、塩原などの風光明媚な観光地やら伊香保、水上等の有名な温泉地に恵まれてて、つい最近は富岡製糸場が世界遺産に認定されるなど、話題のスポットも豊富だというのに、何か惜しい話である…。
 実際のところ『いつ街』な視点で見るとどうだろう。このコーナーは基本的に駅前及びその周辺の街並みの散策記というコンセプトであり、その土地の街並ならびにそこで暮らす人たち独特の生活風景に触れることを目的としている──その意味では都心への通勤エリアと地方都市の要素が相殺されてしまい、どちらも中途半端な感じが否めないこのエリアは、泊まるほどではないが日帰りにはちとしんどいという距離的な問題もあって『いつ街』的にもちょっと…、って感じてしまうのは致し方ないかも知れない(あくまで僕基準です)。
 そんな北関東3県の一角である群馬県で、今回取り上げる桐生は、ある意味そんな北関東各都市の惜しい特色を象徴的に表してる街、と言えるかもしれない──僕が桐生駅に降り立ったその日は、ある日の休日出勤の代休の1日を使って、ちょっと日帰りでプチ遠出したいな、というだけで訪れただけで、別に桐生で降りることが目的だったわけではない。ただ僕の住んでるとこからは山梨や神奈川よりも北関東それも西側寄りの方が行きやすい、けどその時点では前橋も高崎も足利も降りたことあるし、まだ降りたことのなかった駅と言って思いついたのが桐生だった、ということである。
 両毛線の主要駅は最近続々と高架化されているが、桐生駅は比較的早くから高架駅であり、僕が降りたその時はもう高架になって20年以上にはなってたと思うが、その割に駅前周辺は未開発地が多いような気がした。繁華街は駅から少し離れたところにある道路沿いに開けているのだが、駅前には商業ビルの類はポツリポツリといった感じである。道路沿いの商店街に並ぶ店舗たちも新しからず古からず、人通りは少なく流行ってるという感じはあまり受けなかったが、平日の昼間ってことを考えればまあこんなものかも知れないという感じである──これが見事にシャッター通りになっちゃってるというのであれば『いつ街』的な見どころといえるかもだけど、そこまで寂れてはおらず、そこそこ人の姿は見られた。でも大型店舗の出店があるわけではないから活気ある賑わいではない。その意味でも中途半端で平凡な商店街風景と言えるだろう。
 駅周辺に余白が多いのも近郊都市ではありがちな風景。なまじ高架駅なので、老朽化し始めた瓦屋根の木造モルタル駅舎みたいな趣でもなく、中途半端なモダン感が否めなかった──実はこの日、商店街をほんの100m歩いたところで会社から携帯に電話があり、営業データ処理の方法について同僚から不明点の質問を受け、電話では説明できないからパソコンで説明せねばと、僕が会員であるネットカフェのある街まで引き返すためにとんぼ返りを余儀なくされたのであった。そんなわけでこの時の桐生駅前散策自体が思いっきり中途半端なものであったわけだが、そんなことなんかも街の印象に影響してるのかも知れない。
 ともあれ、昼時だというのに食事の時間も取れないまま、ものの1時間にも満たない桐生駅前の滞在を終えてとっとと駅の改札を抜けて高架ホームに上がったのだった──夏休み直前の短縮授業で下校の時間に当たってたのか、ホームは高校生で賑わっていた。彼らの外見も垢抜けてなく、かといって田舎者っぽくもなくという、いかにも北関東ぽい感じである。これらの少年少女の半分でもあの商店街をにぎわしてくれればまた活気も違うだろうな…、なんて思いながら、僕は自宅に近い方面までとんぼ返りで戻っていったのだった。

 









 2ヶ月ほど前に東京都内だけでなく周辺の他県のみならず、一部の他の地方などにも不安が広がったデング熱騒動、秋も深まるにつれて騒がれなくなったのは、収束したのかそれとも騒ぎのターゲットがエボラ出血熱へ移っただけなのか──まあ季節的に考えても収束したと考えていいのではなかろうかと思われる。
 デング熱が収束してるのかもなと考えるのは、主にこの病気を媒介してるヒトスジシマカの最盛期が過ぎており、現在の成虫は遠からず死滅して卵で越冬するためで、今後の産卵はなかろう、つまり産卵のために蚊が吸血することもなかろうと思われるからである。
 ヒトスジシマカに限らずアカイエカにせよハマダラカにせよ、血を吸うのはすべてメスである。その吸血も、産卵前に栄養を取る目的であり、産卵期でない時には吸血の必要はないので血は吸わない。本来の蚊の主食は植物の葉や茎の汁である。血を吸わないオスはもちろん、メスも産卵期以外は“草食系”なのである。とはいえ、オスの蚊も人間には近づいてくる。それは、吸血のために人間のそばに集まるメスを求めて交尾の相手を見つけるためだという──
 産卵前というか交尾前後のメス。ようするに人に群がってくる蚊って、嫁入り前のお年頃のお嬢さんなのですよ。そんな、若い女の子たちにたくさん寄って来てもらえて嬉しい…、ワケないだろ! とは言いつつも、相手が若い女の子で、それを求めてオスも集まってくるとなると、自分の身体はさながら婚活パーティの会場みたいなものではないか…、なんて考えると、腕に止まった蚊をバシッと叩き潰すのは、彼氏の前でそいつの彼女を襲うようなものってこと? それって、どうよ?
 ──もちろん普段そんなことは考えずにバシバシ蚊を叩き潰してるし、蚊取り線香や殺虫剤なんかも頻繁に使っている。蚊の世界からみると、人間ってホント、女性の敵ですわなw でも、現実に今回のデング熱だけでなくマラリアにせよ日本脳炎にせよ、蚊が媒介してるわけだから、ホイホイと血を吸わせてやるってわけにはいかないのは当然の話である。痒いだけならまだしも、こちらの生命に関わってくるわけだから。
 その意味では、蚊の世界って見事なまでに“草食男子”と“肉食女子”なわけね。それに、人間みたいなでっかい動物に近づいたら叩き潰されてイチコロなのにそんな危険を冒してまでも産卵のために吸血しようとするとは、まさに“母は強し”である。いろんな意味で蚊のメスは侮れないよなぁ…、ってヒトのメスもいろんな意味で侮れないけどねww
 今回のこの記事、デング熱のニュースに関連して蚊の生態について考えてみようという趣旨で書いたつもりだったのに、なんか非常にナンセンスな駄弁になってしまいました。スミマセン──

 









現役幕下力士で『天空海』という四股名の力士がいる。現在24歳で出世は決して早いとは言えないものの、幕下の半分より上に定着はしており、さらに上位を窺う成績も上げてるので、十両昇進の期待は十分持てるとは思うのだが──で、この『天空海』という四股名、果たして何と読むんでしょうか?
 ──正解は『あくあ』。今年の春場所で前名の豊乃浪から改名したもので、本人によれば「成績に波があったので、浪を取って波をなくしたかった」のだそうだ。もともと4年前の入門時に師匠の立浪親方(元小結旭豊)が「阿久亜」という四股名を考えてくれてたらしいのだが、その読みを受け継いで、上昇の願いを込めた「天」と地元の茨城県大洗町の「空」や「海」をイメージしたというのだが…、しかしこれで『あくあ』と読ませるのはちょっと強引な気がするのと、当てた字面からも宮崎アニメ的なノリのイメージがぬぐえないんですけど──
 世間では我が子に変な当て字でどうにもマトモに名付けたとは思えないような、いわゆるキラキラ☆ネームが話題に上ることが多い。この傾向は音楽ユニットにも見られることはこちらでも取り上げたが、力士の四股名にもその傾向は何年か前から出始めてはいた。三段目以下にも『右肩上(みぎかたあがり)』や『大露羅(おおろら)』がいる。『爆羅騎(ばらき)』はこれが本名の下の名前だというし『桃智桜(ももちざくら)』は嗣永桃子にちなんでつけたという。「ももちの大ファンだから許してニャン」てか? 関取に目を向けても『臥牙丸(ががまる)』や、この九州場所で新入幕の『阿夢露(あむーる)』なんかも思いっきりキラキラ☆四股名だろう。──
 もっとも、過去にも「ちょっとそのネーミングはどうなの?」な四股名はなかったわけではない。特に外人力士には、関取以上だけ見ても『把瑠都(ばると)』や『阿覧(あらん)』などの幕内上位を沸かせた力士だけでなく十両にも『星安出寿(ほしあんです)』なんてのもいた。外人力士の場合、本名に漢字を当てようとすると多少は無理も生じるだろうし、出身国の特色を何とか折り込みたいみたいなのもあるのだろうけど、しかし、現在これだけ角界を席巻しているモンゴル人力士には特に無理のある四股名は現在も過去も見当たらないし、祖国の特色を生かそうとしてももう少しまともな四股名のつけ方はあるのではなかろうか? いくら名前で特色を打ち出すとは言っても、程度問題ってやつであろう。
 ──で、日本人力士の場合はそういう外人力士みたいな苦労の必要がない分、四股名ももっとまともにつけられるはずである。こうした珍名力士がみるみる出世したという話はほとんど聞かない(逆に『桃太郎』から『玄海』に変えてすぐに十両に昇進したというような例なら聞くけど)し、上に名前を上げた力士の中にも30代後半で万年序二段以下なんて力士もいるくらいで、名前でなく土俵の相撲で目を引けよ、なんて言いたくなってくるんですけど、いかがなものでしょうか?
 もちろん、本人が関取として幕内上位の土俵を沸かせる存在になれば四股名にも格はそれなりについてくるし「キラキラ☆四股名」だなんて言わせないぞ」という気概で頑張ってくれればいいのである。上述の天空海も改名時の決意表明で「名前ではなく自分の努力が必要」と語ったという。ここまでの出世のペースを見る限り、彼が関取に上がれる可能性は決して低くはないと思われるが、伸び悩んでポシャってしまう可能性も当然あって、どっちになるかはまだわからない。ただ言えることは本人の精進次第でどちらにも転ぶということである──この九州場所では自己最高位、全勝すれば十両昇進できる幕下15枚目以内に上がる天空海。「あくあ」と読むこの四股名が有無を言わせぬ貫録を持って好角家に響くか、それともキラキラ☆四股名で終わってしまうか、果たしてどちらに転ぶのか…、ここ数場所が勝負である。

 









 今年の春ごろにリリースされた『炎と森のカーニバル』はいい曲だ。昨年の『RPG』やその2年前の『スターライトパレード』なんかもそうだが、あまりアクは強くないけど穏やかでソフトな曲調に優しい歌詞世界、それら全体がどことなくメルヘンチックにも感じられて、トータルな楽曲世界としては僕的にも印象はいいが、女性ウケはさらにいいことと思われる──ただ、そのバンドのユニット名だけは、ちょっと何とかならないものかというのを禁じ得ない…。
 SEKAI NO OWARI。ヴォーカルのFukaseがつけたこのユニット名には、もちろん単なるいい加減なノリではない彼らなりの意味づけがあって、その分思い入れもあるのだろうけど、しかし言葉があまりにもストレート過ぎではないか。現在はローマ字表記だが命名時には表記もまんま『世界の終わり』だったというし──ピエロの仮面をかぶったメンバー(DJ LOVE)の存在と合わせて、どうしてもキワモノ的な印象がぬぐえない(これは先行してブレイクしたゴールデンボンバーの樽美酒研二の白塗りと金爆自体のユニットキャラやライブ内容も、そういう印象に影響してるかも知れない)。
 ゲスの極み乙女。にも同じことは感じるが、彼らの場合は楽曲世界にもちょっと悪い子的な個性が感じられるので、僕的にはまあよしとしている。神聖かまってちゃんなんかも同様で、ユニット名と音楽性との間に乖離はあまり感じられない(それでもやはりどっか企画モノ的な響きは否めないけどね)。しかしセカオワの場合は上述のようにファンタジックで優しい楽曲世界がユニット名から受ける、例えば『聖飢魔Ⅱ』とかに似た響きが、彼らの楽曲を知らない人たちはミスリードされてしまうのではないかと。
 当初、名前だけ聞いてキワモノだと思ってしまった彼らの楽曲にまともに触れたのは、昨年のJR東日本のスキー場のCMだったんだけど、この時も駅で先行して上述のDJ LOVEのゲレンデでのどアップ顔のポスターを見てしまい「え…?」と思ったものであった…。その後、音楽性にも触れられたから僕の先入観は現在ではすっかり解消されたけれど──
 しかし、もう彼らはバンドとしての存在も音楽性も、そしてライブで醸し出されるトータルなアーティスト世界(ちなみにライブ演出は紅一点メンバーのSaoriが担当だけあって、女子の感性に訴えるものだと思う)も十分認知されたことだし、wikiに書かれてた上述のユニット名に意味づけられた目標もきっともう達成されたことと思われるし、そろそろユニット名を見直してみてはいかがですかね? 僕的には後進の音楽ユニットたちに、その意味づけを理解しないで奇をてらうだけのつもりでキラキラ☆ユニットネームが次から次へと出てきて、バンド音楽全体を見る目が変わってしまわないかという懸念が…、ね。

 









 8月の終わりのとある土曜日、僕は東京の世田谷区の砧公園を歩いていた。お隣の渋谷区にある代々木公園で蚊にさされた人がデング熱を発症したことが報じられた直後である。隣の区とはいえ代々木と砧はかなり距離があるから大丈夫だと安心していたのだが、その後、都内の各地でもデング熱患者が出たと聞いて「これはタカくくって安心してられないな」と不安を覚え始めたのだった──幸いこの時には蚊にさされてないのでそれでも多少は安心していたのだが──
 僕は普段、仕事であちこち外回り移動しているが、都会のオフィス街ばかりではなく公園や雑木林の多い郊外を動くことが少なくない。当然、公園の真ん中を突っ切って蚊にさされることはしばしば。デング熱騒動以後も頻繁に蚊にさされてはいたが、でもさされた場所は埼玉県の狭山市だったり岩槻区だったりと、都心とは離れた場所が多かったので「ここまで離れてれば…」なんて思っていたが…、他府県で、代々木公園を全く訪れてない人がデング熱を発症したと報じられるに至って、僕の安心はさらに揺らいだのだった──幸い10月も後半を迎えた現在何ともないので、デング熱の心配はどうやらしなくてもよさそうである…。
 デング熱を媒介しているのは蚊の中でもヒトスジシマカという種類なのだが、この蚊、最も普通に見られる蚊で、外で公園や墓地なんかで人にたかってくるのはほぼこの種類である。しかし、デング熱だけでなく西ナイル熱やチクングニア熱、黄熱など多種類の感染症や寄生虫の媒介者であり、さされて「ああ痒い!」だけですむ話ではなくなってしまう場合もある、本当は怖い衛生害虫なのである──それでも上記のようなナントカ熱なんて病気は主に熱帯の病気であり、日本で蔓延することなどはそうそうなかったのだが、日本と海外の行き来が増えてグローバル化したことと温暖化で日本でも夏の平均気温が上がったことなどで、それらの病気が上陸し、かつ日本で生息できる状況にいつの間にかなってしまった。今後は日本でも、その種の伝染病が発生するものだという前提で、それを念頭に置いた医学的診断や治療、そして我々庶民レベルでも普段からの習慣的な予防が必要になってくるであろう、てかもうなってるよ。
 まあ、今回のデング熱ほど深刻な伝染病でなくても、さされて痒いところを掻きすぎて傷ついた皮膚の表面から別の最近に感染することもあれば水ぶくれになったりすることもあるわけで、蚊にさされたら放っておかないですみやかにキンカンでもムヒでも塗った方がいいのは間違いない。お年寄りや小さい子供だったりすると免疫力も低いだろうし、アトピーでも持ってる人なら皮膚のダメージも違うだろうし…。でも「たかが蚊にさされたくらい…」というアタマで僕も含めてみんな軽く考えてたことだろう、今まで──今回のデング熱騒動は、そんな日本人の健康認識を改めて見直してみるいい機会なのかもしれない。
 
 








 何度も書いてますが、この『日本語』コーナーは単語や諺、慣用句など言葉そのものの意味や使い方を吟味するコーナーですので、イデオロギー的観点から噛みついてこられても非常に困ります。そこんとこ、何卒どうぞよろしくお願いします──
 さて…、表題の言葉である。『A級戦犯』とは「平和に対する罪=宣戦布告、戦争の計画、準備、もしくはその共同謀議への参加、を犯したとして極東国際軍事裁判=いわゆる東京裁判に訴追された人」のことである、これに対して「通例の戦争犯罪=戦時国際法に違反する罪(捕虜の虐待や非人道的兵器の使用等)にて訴追された人」が『B級戦犯』であり「人道に対する罪=一般国民への虐殺などにて訴追された人」が『C級戦犯』である。
 上記3つの定義からわかるように、戦争犯罪のA~C級の分けはあくまでも種類分けであって、決して罪の重さや悪質さの順位のことではないのは明白であるし、これまでもことあるごとに説明されてきたことであるはずである。ちょっと考えてみても、例えばナチスドイツのユダヤ人狩りやポル・ポト政権時代のカンボジアでの虐殺は上記分けだとC級に該当するのだが…、それらが戦争犯罪として最も軽い分類にはいるだなんて思います?
 でありながら、未だにA級戦犯が最大の悪玉であるという認識が一般大衆から消えない状況である──例えば週刊誌の記事見出しなどで『○○社からモノ作りを奪ったA級戦犯たち』みたいな表現がされる時、責任追及の最上級の表現として『A級戦犯』という言葉が用いられてるのは間違いない。「あの原発事故のC級戦犯」とか「経営破綻のB級戦犯」なんて表現は聞いたことないですしね──
 そういう間違った認識が定着してしまってるのは、やはりA“級”という表現が原因であろう──A~C級の分けは極東国際軍事裁判所条例の第五条の定義により決定されたのだが、元々の条例分を見るとA~Cではなく(イ)(ロ)(ハ)だったようである。これがABC表記に変わったのは欧米が主体となる裁判だからわからなくはないが、なぜそこで階級や等級などランクを意味する“級”の文字が付け加わったのか──wiki見ても他のサイトを検索しても、それについては解説が見つからないんですよね。
 ──いずれにせよ、A級とそれ以外に罪のランクの差はないことは間違いない(あくまでもB級C級との比較の問題であってそれぞれの行為それ自体の一般論的な善悪についてはこの際問題にしない)だろう──そこでなぜ“級”という言い回しになったのか…、今みたいに戦略として恣意的に表現を歪めるどこぞのメディアやその狂信者がウジャウジャいなかった頃から用いられてた表現だから政治的な意味合いは別にないだろうに、そう表現するようになった経緯を説明する資料がまるっきり見当たらないまま、曲がってしまった方の意味で一般的に定着してしまってる状況…、実に不思議なのです。