表題の○○の部分にはグラビアアイドルやイケメン俳優の名前がはいると思っていただけばよい。「坂口憲二似のナイスガイ」とか「伊東美咲似のイイ女」みたいな感じの使い方である──こちらの記事でaikoとaiko似について書いてからだいぶ経ったが、この『○○似』って言い方についてちょっと思案をめぐらせてみた…。 まず、ある人のことを誰それ似って紹介する時に、そこで名前の出てくる女優やモデルやスポーツ選手は、まずたいていルックス的にはかなりイケてる人で、逢う前にあらかじめそんなふうに紹介されると「わぁ、早く逢いたいな」とワクワクさせられてしまう…、が、実際に逢ってみると、まず間違いなく○○似と引き合いに出されてる○○よりは確実に落ちるルックスの人がやってくる。でもこれはまあ致し方ない。加藤ローサに似てて加藤ローサより可愛いシロウトの一般人がいたのでは、加藤ローサ本人ももちろんだけどそれ以上にプロダクションやプロデューサー、スタイリストなどの演出スタッフの立場がなくなってしまう。その道のプロが知恵をしぼって磨きをかけた演出に及ばないからといって、加藤ローサ似のその娘が可愛くないわけでは決してない。本家に及ばなくたって、それに例えられるということは、やはりすごいことなのである── しかし、「○○似の…」と紹介されてワクワクさせられる時の期待感は、実は決して単純に顔カタチなどのルックスに対してだけでなく、その○○の性格的イメージも含んでたりする。もちろん○○本人のホントの人格なんて僕らは知らないから、それらは例えばドラマで演じた役やバラエティ番組で見せるキャラのイメージだったり、歌ってる曲のイメージだったりするわけだ。チェ・ジウ似と言われれば『冬ソナ』や『天国の階段』でみせるような恋にけなげで涙もろい役柄のイメージを持ってしまうし、草彅剛似の人ば人畜無害でシャイな『いいひと』というイメージで見てしまう──で、もちろん顔かたちが似てても実際の性格まで似てるわけではないから、そのイメージを期待して逢ってしまい、実際の性格が全然違う(性格が悪いわけでは全然なく、その人もその人なりの別の美点を持ってたりもするのだが)と、逢う方は(その○○のファンの人であればなおのこと)期待を裏切られたような気分になってしまう。 だからこそ「aikoは好きだけどaiko似は…」という声は、そういう真理をするどく突いてると思うのである。前の記事にも書いたが、僕も含めたaiko好きの男は決して見た目のルックスだけを問題にしてるわけではないのだ── 身近な誰かを、その人と一度も逢ったことのない人に『○○似の…』と紹介する時、紹介者はまず間違いなくその誰かをよい意味でPRしようとしてるのだが、そういう意味ではこの『○○似』という触れ込みは、一歩間違えるとそれこそ『ひいきの引き倒し』で逆にその紹介する相手のイメージを不必要に損なわせることにもなりかねない。紹介する方も紹介を受ける方も、その点は十分心して出逢いに臨まなければなるまい…。 |