近鉄とオリックスの合併をめぐるプロ野球選手会のストライキ、先週末は何とか回避されたようだけど、選手たちの要求が首脳部に受け容れられたわけでは決してなく、今週末、その次の週末と、まだまだ両者の対立は瓦解のメドが立っていない状況である──誰かさんにとっては「たかが選手」という認識かも知れないが、多くのプロ野球ファンは選手たちのプレーを観るために球場に足を運んで入場料を払うわけで、球団にとっていわば選手は“売れ筋商品”である──例えば講談社が「たかが少年マガジン」などと言って読者を無視して雑誌をいいように牛耳ったらどうなるか…、「たかが車」とタカをくくった自動車会社の現状をごらんよ──ライブドアでも楽天でもいいから新規参入で2リーグ制とチーム数を維持して、早いことこの泥仕合を収集してもらいたいものです、お互いに…。 それにしても、6月の合併発表に端を発し、ついにストライキにまで発展したこの一連のゴタゴタ劇のニュースを見ながら、大相撲の世界で力士がストライキを決行して協会の親方たちと直談判、なんてことは、あの旧弊な封建社会ではなかなか起こるものではないだろう、なんて思ってたのだが…、調べてみると何と、大正12年1月に幕内・十両力士が初場所初日からストライキを決行した前例があったのである──この当時“ストライキ”という呼称がなくて、当時の新聞報道ではこの件は“脱走”と書かれたようであるが──大日本相撲協会に対し力士の待遇改善を求めて、時の横綱も含めた関取ほぼ全員がストライキに参加、初日の土俵は幕下以下の若い者だけで興行が行われたらしい…。この時は多くの関取がそれぞれの部屋の師匠から破門されたり自分から廃業したりしたが、結局力士たちの要求がどのくらい通ったかは定かではない。しかし力士たちにとってはおそらく不本意な結末だったのではなかろうか。 封建的な相撲の社会ゆえ、ストライキのやり方も江戸時代の直訴や一揆のようなスタイルで、組合を主体とした労使交渉といったスタイルのよくあるストライキとはひと味違ったものといえる。本場所の興行に大きな影響が出るほどの大掛かりなストライキといえば、関脇天竜三郎らが脱退した昭和初期の春秋園事件くらいか(←これの場合も、要求を突きつけて上と公称といったものとは若干性質が異なる)くらいか…。あとは押尾川親方(元大関大麒麟)がニ所ノ関部屋から独立して部屋を興す際に力士を連れて近くの寺に立てこもった(この時押尾川部屋への移籍がかなわず、失意の中で廃業してプロレスに転向したのが、当時幕内にいた天龍源一郎)件とか、横綱双羽黒の付け人脱走事件、大島部屋のモンゴル力士5人の脱走(うち3人はそのまま廃業し帰国、部屋に戻った2人が旭鷲山と旭天鵬である)などなど、対決の相手は相撲協会というよりは所属部屋の師匠だったり付いてる関取だったりという、言わば“内輪モメ”。そしていずれも満足いく結末には至らないままストライキは終結している──ここに書いた一番で時の庄之助が謹慎処分、詰め腹同然に辞表を出した背景にも、直前に行司が協会に対して待遇改善を求めて団交を行った件で首謀者とされたことが尾を引いてると言われているが…。 力士たちも、かなり以前から“力士会”というものを結成しており、その時々の横綱が代々会長を務めている(現在の会長は朝青龍)。しかし、プロ野球界の古田選手会長のように、自分たちが存分にプレーに専念できるように、ファンに力いっぱいプレーを見せるために、という目的で首脳部と直談判しようなんて気概のある力士会会長が果たしていただろうか…、いたとして、その気概は果たして相撲協会に受け容れられることはあるのだろうか──プロ野球界の話とはいえ、角界になぞらえながら「もしも相撲の世界で同じことが起きたら…」なんて想像しつつ、球界の動向に注目してる今日この頃である…。 (追記:残念ながらこの記事UPの次の日、ついにプロ野球史上初のストライキが決定) |