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毒親(父)の毒が連鎖してしまった毒親Jr.の呟き

毒親(父)に育てられました。そしてその毒が連鎖がし毒親Jr.となってしまいました。そして、ゲイです。
しかし40代前半の頃、それを克服する出来事が起きました。
トラウマを克服するまでの約40年間に関して、
思いつきで綴っていこうと思います。

とにかく、学歴社会真っ只中で

毒親によって高卒という刻印を押されてしまった私は

専門的な知識を身につけて何とか堅気として生きていこうと考えていました。

 

(あまり仲良くはありませんでしたが)

私の兄は彼が中学に上がった時点で既に当時最先端だった

NECのパソコンを相手に独学でプログラミングを身につけ

大学卒業後はその手の仕事に就いていました。

そんな彼が唯一独学では習得できなかったプログラミング(?)があったらしく

某それ系の専門学校にたった1分野を学ぶためだけに通ったのでした。

 

時はまだ90年代中盤。

携帯電話はだいぶ普及したものの

メール機能などまだ無く

一般的なパソコンという今でこそ当たり前となったアイテムであえ

まだごく限られた人たちしか持っていない時代でした。

私はこれからの時代を見据えて兄に倣い

デジタル技術を身につけて何とか生きていきたいと考え

彼に相談することにしたのでした。

 

ところが帰ってきた答えは

「気持ちは分かるけど、あの学校は大学卒業してないと入学できないんだよ」

でした。

 

専門学校でも一流なところは大卒が条件とは

相当ショックを受けたことを今でも覚えています。

これで一つ道が途絶えた・・・と。

 

今思えば、他にも高卒で入れる専門学校など探せばあるだろう?

といったところなのですが、お忘れなく。

毒親育ち故、否定されることが日常として育ってきたので

そもそも受け入れてもらえるという何でもない感覚が薄いのです。

併せて、簡単に入学できる専門学校もそりゃあるだろうとは思いますが、

とにかく学が無い分、他分野で少しでも箔をつけなくては

と焦っていたこともあったのです。

その辺の学校じゃ高卒で比べられた時に負けてしまう・・・と。

 

そこで私は中学の頃から興味が強かった語学の分野に視点を移すことにしたのです。

中学・高校と英語の成績はずっと良かったのと

洋楽を好んで聴いていたせいもあり、

留学の道を探ることにしました。

 

私は高校を卒業して間も無く新宿2丁目デビューを果たし

外国人と外国人を好んで相手にして遊ぶ連中(「外専」といいます)と交友していました。

その中に程無くして渡英した友人がおり、その後もペンパル(!)として

親しく連絡を取り合っていた友人がいたので、彼に相談することにしたのです。

日本にいては駄目だ、と考えたのです。

 

 

市内にもう一軒、家を建てていました。

店がある商店街の家とは別に

少し郊外(といってもチャリで5分程度)の住宅街にもう一軒です。

 

施工が進む工程を楽しみに

父も母も変わるがわるその新居を見に行っていましたが

私はそもそも住む権利が無いので

会話には入れてもらうことは全くありませんでした。

 

そして、私が実家を追い出されて間も無くその家は竣工しました。

前回のブログにてお伝えした通り、

私は体調を崩し入院することになってしまいました。

入院期間は約1ヶ月でした。

その間、仕事にも行くことができず収入が途絶えてしまうので

借りていた部屋は解約することになり

私は再び実家へ戻ることになりました。

当初、詳しい場所さえ知らされることがなかった新居です。

そこには知らないうちに迎え入れられていた犬も居ました。

 

実はこの時の入院騒動で

私はかなり体調が悪く下手したら死んでいたかもしれない状態でした。

そのことで、さすがの父も少し焦ったようで

退院後、実家に戻ってしばらくは攻撃はなかったように記憶しています。

そして、何より心強かったのは

この新居は二世帯住宅となっており

大好きな母方の祖母が同居する家となっていたのです。

 

両親が家業に出ている間、

祖母や犬と接することで心の平穏を取り戻していました。

 

しかし、その後も人生は続きますので

とりあえず私は同じ職場で

夜のシフトから日中のシフトに業務を変更してもらうことにしました。

何とかして堅気の人生を歩んでいかなくてはという焦りは依然としてありましたが

大学は中退、そして特に何の技術も持たない身でしたので

私はとにかくお金を貯めて、その後の人生の舵取りを考えることにしました。

死にそうになったことで実家に住んでいても

毒父があまり文句を言わなくなった時間を有効活用することにしたのです。

毒親によって精神をやられた人たちの中には

体調に異変が現れることがしばしばあります。

私の場合、3つありました。

 

まず、思春期とは無関係にニキビが全く治らないこと。

胃腸不良。そして不眠です。

 

私は幼少の頃からとにかく眠れない子供でした。

当時は単なる個人的なものというか

そういう体質なのだろう、と辛いながら

諦めて生活していました。

 

今でこそ「不眠症」という言葉は一般的なものになりましたが

昔はそれはドラマに出てくるような向こう側のお話のような感じでした。

 

家を追い出され独り暮らしを開始するにあたり

先日のブログで書いたように

1軒目の契約で見事にカモられてしまいましたが

出ていかないといけないので

それで諦めるわけにもいかず

私は物件探しを続け、何とか入居するまで辿り着いたのです。

 

その間も、私は未成年でしたので部屋を借りるにあたり

『連帯保証人』が必要になるわけですが

例によって例の如く毒父は

「お前みたいな信用ならない奴の連帯保証人になんかなるか!バカ!」

とまたもや私を苦しめる状況を作ってくれていました。

何とか頼み込んでクリアしましたが・・・。

 

出てけ!でも連帯保証人にはならないからな!

 

もうメチャクチャです。

あの手この手で嫌な思いをさせることが生き甲斐なので

仕方ないですが・・・。

 

それはさておき、

私は引っ越しして夜の仕事に入り

21時〜6時という勤務時間の生活をしていました。

前回お話したように、とにかく

「このまま自分は生きていけるのだろうか」

という恐怖心にも似た不安を抱えておりましたので

とにかくかつての状況に輪をかけて眠れない体質になってしまっていました。

 

うとうとして寝落ちしたとしても

せいぜい2時間程度で目が覚めてしまい、

その後は全く眠れず、といった具合です。

そして周りの同世代の友人達(大学生)に合わせて

休みの日は遊びにくので私は次第に体調を崩していくのでした。

 

午前中から出かけて夜まで遊んで、というパターンや

そのまま夜はクラブやバーに行って朝まで、というコースも。

生きていけるかどうかという不安感の中にも

私は毒親の元を離れ

家の中でも抜き足忍び足で存在を消して

生活する必要がなくなった喜びを感じていました。

自分自身でいられることの喜びです。

と同時に、とにかく疲れていました。

そりゃそうです。殆ど寝ずに活動していたのですから。

それでも眠れないものは眠れないので

開き直っていた面もあったのかもしれません。

 

最終的にその疲労の結末は急性肝炎という幕引きとなりました。

入院です・・・。

 

 

 

 

突然ですが、マイケル・ジャクソンというエンターテイナーをご存知でしょうか?

彼は幼少期から既にスーパースターとして生きてきたので

いわゆる普通の子供時代を知らずに生きてきました。

大人になり、大金を自由に使える身となった彼が

ネヴァーランドという遊園地を自宅に作ったり

そこで子供たちと一緒に遊んだりしていたのは

そんな帰らぬ幼少期を疑似体験して

心の穴を埋めるための作業だったのではないかと

私はずっと思ってきました。

 

私は高校卒業後、大学に進学した3ヶ月後に大学を辞めさせられ、

家を追い出されることになったのですが、

当然周りの同世代の友人は大学生です。

中には地方から出てきて親の仕送りで一人暮らしを謳歌している者もいました。

 

当時、私の世代のゲイの間では槇原敬之が大変人気で

新曲が出たタイミングでカラオケで歌えるように

歌詞を我先に覚えるということが日常的に起こっていました。

私は中学2年の頃から洋楽をメインに聴くようになっていたので

槇原敬之をはじめ、当時人気だった小室系にも全く興味はなかったのですが、

あまりに周りが熱狂的なので自然と楽曲が頭に入ってくるのです。

特に槇原敬之の歌はゲイが自身の生活を投影して

一緒に切なさを共有するツールのようなものになっていたようで、

私も友人から「このシチュエーション切なくない?」といった具合に

話しかけられたものでした。

 

しかし、実際に私が槇原敬之の歌を好んで聴いているか否かという問題以前に

私は彼ら(周りの大学生として生活している友人)と違い

果たしてこの先(直近だと明日)を無事生きていけるか?

このまま2丁目の夜の生活に頼って人生を終えなければならないのか?

という不安と隣り合わせで生きていましたので

正直に言うと『それどころじゃない』といった感じでした。

常に伴う毒親から植え付けられた劣等感に包まれた状態でしたので

通常の不安とは別の恐怖感にも似た不安感でした。

そして正直に言うと、

親の仕送りで特に苦労も伴わない状態で

上京先である東京で彼氏ができたの何だのと浮かれている彼らが

心底羨ましかったのです。

私も彼らのように10代最後の好奇心旺盛な時代に

それなりに恋愛を経験してみたかった・・・。

 

時は流れ、つい数年前に仕事で運転している最中

ふと90年代初頭の邦楽が聴きたくなり

そういえば?と槇原敬之の当時バカ売れしていたアルバムを聴いてみたのです。

(サブスク時代になり、こういった面は非常に便利になりましたね。)

先ほど書いたように、

実際には自ら聴くことはなかったものの

自然と耳に入ってくる曲も多かったので

知っている曲もいくつかありました。

そして、改めて歌われている世界観をじっくり聴いて

不覚にも目頭が熱くなり、胸が締め付けられました。

 

「これが、当時の友人が体現していた世界か・・・。」

 

私が体現したくても出来なかったキラキラした世界。

そして、戻りたくても戻れない置き去りにせざるを得なかった日々。

普通の大学生として毒親との関係で悩むことなどなく生きて来れたら

今頃、どんな大人になっていただろうか?

大学生として大学生の年齢なりの悩みや希望を同世代の友人と共有して生きられたら

今頃、どんな価値観で生きているだろうか?

答えの出ない質問を自分に繰り返し問いていました。

 

これもまた、毒親育ち共通の

”同世代の友人達と同じ価値観では生きられず

その時々の若さを犠牲にせざるを得なかった”

という一例ですね。

 

 

私は毒親(父)と絶縁し、遠く離れた地方で暮らすようになり6年になります。

唯一、連絡を取っている弟は私がどこで何をして暮らしているのか知っていますが

父と母、そして兄は知りません。

 

それはさておき、

今朝方、久しぶりに父が夢に出てきました。

しかし、今回登場した父は私が避けてきた毒親としてではなく

本当はこんな父親であって欲しいと願う父親として、でした。

 

毒親育ちの方々はよく

「お互い歳もとったし、そろそろ良い関係になれるのでは?」

と淡い期待を抱いて再接近しては、

相手がまるで変わっておらず落胆する、ということを経験したことがあるようですが

私も今朝、うっすらそんな愚かな期待を抱いてしまった一人でした。

昨年末に脳梗塞を患ったという知らせも受けたこともあってか、

連絡を取っていない年月の中で私自身が父に対して

優しい気持ちを抱くようになってしまったようです。

 

しかし、私が最終的に絶縁を決めた43歳の時点で

父はまるで変わっていなかったのと、

今でも実家で暮らす弟からの話を聞く限り

奴が変わることはまずなさそうなので、

再接近はあり得ません。

毒親は歳を重ねた程度で優しく変わることはないのです。

そして恐らく死ぬまで自分に非があることを認めることもありません。

 

今回のブログで私が何が言いたいのかと言いますと

やはり一般的な父親の元で育ちたかったということです。

たとえ私がもうじき50歳になるといっても

生きていく上で、それなりにストレスや悩みはあるものです。

そんな時に、友人ではなく父親が

愚痴や悩みを聞いてくれる存在としてそこにいてくれたらな、

と思うことがあるのだなぁ、と初めて知ったからです。

 

苦しい幼少期、青年期を生き抜いてきた身ですので

その辺の人たちよりもタフである自負はあるものの

自分の中にも、そんな弱さが残っていることに

少し驚きを覚えた朝でした。