三日月を見上げるウンスを見つめていたのは
ヨンとサンユンだけではなかった
 
 
開京へ帰還する大護軍一行が
海州に滞在中と知った
安西都護府長官チョン・グァンリョルは
一行が宿泊する宿に赴いた直後
窓から顔を出しているウンスを見た
 
 
 
 
 
なんと悲しげな
しかし
なんと美しい女人だろう
旅のお方だろうか?
 
 
しばし見惚れていると
女人は小さく唇を動かし
何か歌っているようだった
 
 
切なげな表情の女人から目が離せずにいると
女人の頬に光るものがあり
そして
女人が静かに泣いているのだと知った
 
 
何が其方を悲しませているのだ
其方の涙を拭ってさしあげたい
 
 
チョン都護は
宿の主人に女人の身元を尋ねたが
主人はのらりくらりと躱して要領を得ず
結局 身元はわからない
女人の出立日を尋ねると
今日より三日間部屋を押さえているという
 
 
チョン都護は明日の晩に
再び女人を訪ねることにして
今日のところは大護軍に挨拶しようと
訪を繋いでもらった
 
 
 
***
 
 
 
この地方を治める安西都護が尋ねて来たと聞き
チェヨンは思わず舌打ちした
ヨンにとって関わりたくない人物の一人なのだ
 
 
ヨンはジョンフンを呼び出し
共に宿の客座敷でチョン都護と面会した
 
 
「大護軍 ヨン殿 お久しぶりです
 海州にお立ち寄りと聞きましたゆえ
 尋ねて参りました」
 
 
「都護殿 お久しぶりです」
 
 
「チョン都護
 その節は大変お世話になりました
 お陰で某 迂達赤に復帰することが叶いました
 改めて礼を申し上げます」
 
 
丁寧に挨拶を交わすジョンフンとは対照的に
ヨンは必要最低限しか口を開かない
 
 
「大護軍
 せっかく海州へお立ち寄りでしたら
 どうぞ我が屋敷にお泊りくだされ
 
 開京と比べれば田舎ですが
 酒と料理は開京に負けておりません」
 
 
「もう夕餉は済ませております
 我らは物見遊山の旅ではございませぬゆえ
 お心遣い不要に願います」
 
 
チョン都護は相変わらず無愛想なヨンにも
きっと旅の疲れがあるのだろうと気にしなかった
 
 
「そうですか それは残念
 明日の出立は何時に?」
 
 
「我らは任務中なれば
 できるだけ目立たず出立したいので
 出立の刻限もお知らせする訳には参りません
 よって見送りも不要でございます」
 
 
「これはこれは 重ねて残念
 
 しかし丁度私も  近く開京へ戻る予定でした
 娘も開京の屋敷におりますので
 できればまた開京でお目にかかりたいと
 思っております」
 
 
「開京でしたら
 宣仁殿で遠目にお目にかかることも
 偶にはあるやも知れませぬ
 
 特に話が無いようでしたら
 某 まだ務めが残っておるので
 これにて失礼仕る」
 
 
ヨンは都護の返事を待たずに
立ち去った
ジョンフンはチョン都護の思惑も
ヨンの気持ちもわかったので
呆気にとられていた都護に声をかけた
 
 
「都護殿はいつ頃開京へ上京されるのですか?」
 
 
「あ ああ
 このひと月以内にと思うていたが
 少し時期を早めた方がよさそうだ
 
 それよりヨン殿
 大護軍は新たな妻や妾はおらぬだろうな?
 嫡子はまだだと聞いているが…」
 
 
 
 
 
「申し訳ありません
 大護軍はご自身のことは全く語られませんので
 チェ家の奥向きの事情はわかりかねます」
 
 
「そうか
 全く愛想のない男だが
 味方にすれば心強い男だからな
 口が上手いだけの上官や
 金品を要求してくる上官より
 ずっと頼りになるいい男だぞ
 
 儂は赤月隊との付き合いもあったのでな
 近いうちに大護軍とは身内になるだろう
 ヨン殿も懲りずに仕えてやってくれ
 
 娘がずっと待っておったので
 大護軍が開京へ戻るとなれば
 これから儂も忙しくなる
 今夜はこれで失礼するよ
 ヨン殿も また開京でな」
 
 
チョン都護は
ジョンフンに見送られ帰って行った
 
 
 
***
 
 
 
食堂の片隅で文を認めていたヨンの元に
ウォンジョンが来て困り顔で話しかけた
 
 
「大護軍
 チョン都護が
 宿に泊まっている美しい女人の身元を
 宿の主人に尋ねたそうです」
 
 
「なんだと!? それはウンスのことか?」
 
 
「もちろん
 本日この宿に泊まっておる女人は
 ユ医員だけです」
 
 
「それで何と答えたのだ」
 
 
「その部屋の女人は大勢で宿泊しておるので
 個々の身元までは聞いておらぬと」
 
 
「どこでウンスと接触したのだ」
 
 
「接触したのではなく
 チョン都護は窓から顔を出していた女人が
 たいそう美しかったので
 身元を知りたいと主人に申したそうです」
 
 
ヨンは先ほどサンユンと話し終えた時
ウンスが窓から月を見ていたことを思い出し
ため息を吐いた
 
 
「それで?」
 
 
「女人が何時まで滞在するのか聞かれたので
 チョン都護が示した部屋の女人は
 三日間部屋を押えておると伝えると
 明晩また参ると言われたそうです」
 
 
「手裏房の宿で助かった」
 
 
「明晩 本当にチョン都護が参りましたら
 あの女人はすでに婚姻していると
 申すよう伝えております」
 
 
ヨンはこの先また面倒が起こりそうで
頭が痛かった
そこに都護を見送ったジョンフンが来た
 
 
「ジョンフン すまなかったな」
 
 
「いいえ 某に気遣いは無用です
 
 それよりも大護軍が開京へ戻るなら
 都護も早く上京すると言われておりました
 
 悪い方ではないのですが…
 その思惑は  大護軍のご推察通りかと」
 
 
「あの親娘にはうんざりだ
 どうして  放っておいてくれぬのだ」
 
 
 
 
 
ヨンは珍しく愚痴を吐いて  顔を顰めた
 
 
「大護軍
 開京へ着いたら
 できるだけ早く奥方をお披露目なさい」
 
 
「大護軍
 お子を授かれば
 周りも静かになろうかと」
 
 
ウォンジョンとジョンフンが苦笑しながら
伝えるとヨンもため息をつきながら頷き
墨の乾いた文をジョンフンに手渡した
 
 
「これを直接 王様とチェ尚宮に頼む」
 
 
「はっ 畏まりました」
 
 
「ヨン殿
 明日の朝食は海州名物のビビンバを
 頼んであります
 ヨン殿の分も早めに用意させますので
 精をつけてから出立なさい」
 
 
「ウォンジョン殿 忝い」
 
 
遣り取りしているうちにヨンが
ジョンフンから香る匂いに気付く
 
 
「ジョンフン 何か香っておるな」
 
 
「ああ これは先ほど医員殿からいただいた
 石鹸の香りでございましょう」
 
 
「ジョンフンも貰ったのか?」
 
 
「はい
 つい先刻 警護を代わっておった折に
 いただきました」
 
 
ジョンフンは嬉しそうに懐から出して石鹸を見せた
ヨンはしげしげと石鹸を眺め
その形が四角であることを確認し  安堵する
 
 
「うちのジウォンにもいただき喜んでおりました」
 
 
「某には妻への土産にとくださいました
 本当にお優しい方です
 まだ 開京に友が少ないので
 うちのガインと交流を持ちたいと
 仰ってくださりました」
 
 
「うちのジウォンとも
 気安く接してくださるので
 ジウォンはすっかり医員殿に懐いております
 
 幼い時に母を亡くして姉妹もおらず
 ジウォンは姉のような医員殿を
 慕っておるようです」
 
 
「大護軍
 先ほどユ医員から王妃様の主治医になると
 聞き及びましたが
 そのような方と某の妻が
 親交をもたせていただいても
 本当によろしいのでしょうか?」
 
 
「それを言うなら
 うちのジウォンは
 ますます恐れ多くて近寄れないな」
 
 
ウォンジョンが自虐的に笑ったが
ヨンはウンスを思い出すようにして言った
 
 
「あの方は
 万民平等の理念をお持ちだ
 ゆえに
 あの方にとって高麗での身分や
 貧富の差など問題ではない

 あの方が望まれるのであれば
 身分の如何は関係なく交流をもたれれば良い」
 
 
ウォンジョンもジョンフンも安心して頷いた
 
 
「ウォンジョン
 開京に着いても暫くは
 ジウォンにあの方の護衛を頼めないか?」
 
 
「ジウォンさえ良ければ私は構いません
 もちろん
 ジウォンも断らないかと」
 
 
「では 念のためジウォンにも確認はとるが
 その方向でよろしく頼む」
 
 
「ウォンジョン殿
 うちのガインもそのうち
 ユ医員を訪ねるでしょう
 ジウォン殿によろしくお伝えください」
 
 
「わかりました
 こちらこそ奥方によろしく伝えてくだされ
 ジウォンは女人の知り合いができ
 喜ぶことでしょう
 これもユ医員の繋いでくれたご縁のお陰ですな」
 
 
 
 
 
開京で女人たちの集う様子を想像し
三人はそれぞれに
愛しい女人の笑顔を思い浮かべて
顔を緩ませた
 
 
 
***