手裏房はいつもの如く夕餉の後 姿を消した
 
 
ウンスが風呂を済ませた後
ヨンは訪ったサンユンと出て行き
トルベはマンソクと食堂へ行った
 
 
テマンが鳩を飛ばしに放鳩籠に行く間
ウンスの警護を任されたジョンフン
 
 
部屋の前に立って警護していると
ウンスが扉からひょっこり顔を出した
 
 
「ねえ ジョンフンさん
 ジョンフンさんの奥方は一人?」
 
 
唐突な質問に面食らいつつ
ここ数日の行程で
この女人が奇天烈だと理解していたジョンフン
 
 
「はい 一人でございます」
 
 
「やっぱり!
 ジョンフンさんは誠実そうだもの
 一人だけだと思ったわ!
 どうやって奥方と知り合ったの?」
 
 
身内でもないウンスの踏み込んだ質問に
ジョンフンはたじたじになりながらも答えた
 
 
「はい
 通っていた書堂で出来た友の妹御でした」
 
 
「それで 家同士が決めたの?」
 
 
「いえ 兄の後を追ってくるガインが可愛くて
 ガインも某の妻になりたいと申してくれた故
 某が父上に願い出て縁談を申し込みました」
 
 
「奥方はガインさんていうのね!
 じゃあこの時代に珍しい恋愛結婚ってこと?」
 
 
「れんあいけっこん?」
 
 
「そう 親が決めた婚姻じゃなくて
 本人同士が慕いあって
 望んで夫婦になったんでしょ!?」
 
 
ジョンフンは照れながらも答えた
 
 
「はい そうです」
 
 
「まあ 素敵ね〜
 国境に来てしばらく離れ離れだったから
 早く会いたいでしょうね〜
 お子さんは?」
 
 
「いえ まだ授かっておりません」
 
 
「そうなんだ…
 あのね
 こんなこと聞いていいかわからないんだけど…
 一般論として
 もしも お子が授からなかったら
 高麗ではみんな側室を迎えるのかしら?」
 
 
「さあ 人それぞれでしょう
 嫡男か次男か 庶子かどうかでも
 お家の考え方が違います故 なんとも」
 
 
「それはそうよね
 ジョンフンさんならどうする?
 お子を授かるために
 郷妻とか側室とか妾をもったりする?」
 
 
「まさか 考えたこともございません
 某はガインとの間の子しか
 望んでおりませんので
 もし授からぬ場合は 生涯ふたりで暮らします」
 
 
「へえ 愛してるのね〜」
 
 
「あい?」
 
 
 
 
 
「ジョンフンさん 貴方ナイスガイよ!
 ちょっと待ってて!」
 
 
ウンスはサムズアップして
顔を引っ込めた
 
 
待つも何も
扉の前で警護中なので動けないジョンフンは
ウンスの言動の意味がわからず首を捻る
 
 
またすぐにウンスが顔を出したので
ジョンフンは疑問を尋ねた
 
 
「ユ医員
 ないすがい とはどのような意味ですか?」
 
 
「ああ ナイスガイ
 思いやりがあるとか いい人とか
 素敵な殿方ってことよ」
 
 
「では お褒めいただいたのですね」
 
 
「もちろんよ!
 ジョンフンさんは初対面の時から
 ジェントルマンだと思ってたの!」
 
 
またしても意味のわからぬ言葉だったが
ジョンフンは 聞き流すという方法を覚えた
 
 
「ところでユ医員
 何故 側室や妾のことなど
 お尋ねになるのですか?」
 
 
「えっ ほら 私
 高麗の世情に疎いって前に言ったでしょ
 
 だから…    例えばよ 例えば
 チェヨン将軍くらいの家柄だと
 どうするのかな〜って思ったの」
 
 
「ああ 大護軍ほどのお家柄でしたら
 確かに継嗣の問題は重要でしょうね
 
 しかし 大護軍がお子を授かられるのも
 時間の問題かと思います」
 
 
ウンスはドキッとした
 
 
もしかして 私とヨンが付き合ってること
もうみんな知ってるのかしら!?
もしかして 兵営や途中の宿で
いちゃいちゃしてたことが  ばれてるとか?
やだ〜 恥ずかしい…
 
 
もじもじしながらウンスは尋ねた
 
 
「どうしてそう思うの?」
 
 
「はい なんでも大護軍の奥方が
 開京へ上京されるそうでございます
 
 これまでは大護軍は戦で忙しく
 その上 奥方の郷と開京とで
 離れてお暮らしでしたが
 これからは開京で  ご夫婦で暮らされるとか」
 
 
 
 
 
ジョンフンの言葉にウンスの思考は停止した
 
 
「ここだけの話ですが…
 大護軍は奥方のために  此度
 国境から開京へ戻ることを決められたそうです
 
 奥方一筋の大護軍ですので
 お子を授かられる日も
 近いのではないでしょうか」
 
 
ウンスは動揺し
これ以上  ヨンと奥方の話を聞けそうになかった
 
 
手に持ったままの石鹸を
握りしめている自分に気付き
小さな包みをジョンフンに差し出した
 
 
「ジョンフンさん
 いろいろ変なこと聞いちゃってごめんなさい
 
 これは私からガインさんへのソンムルよ
 私が作った石鹸なの
 よかったらお土産にさしあげて」
 
 
「ユ医員 ありがとうございます
 何人か持っている隊員から
 良き香りがしておりました
 
 ガインが喜びます」
 
 
喜ぶガインを想像して
石鹸を見つめていたジョンフンは
ウンスの異変に気づかなかった
 
 
「あと数日で開京ね
 もうしばらくよろしくね」
 
 
「あっ ユ医員
 某は明日の早朝
 早馬として 一足先に開京へ向かいます」
 
 
「そうだったの
 じゃあ 今夜渡せてよかったわ
 
 あの私ね 開京ではまだお友達が少ないの
 だからガインさんによろしく伝えてくださる?」
 
 
「わかりました
 ユ医員
 開京ではどちらに滞在されるか
 伺ってもよろしいですか?」
 
 
「えっ 私?
 私は…    どこで暮らすのかしら…」
 
 
少し茫然と考えていたが…
 
 
「私は王妃様の主治医になる予定なの
 だから 多分 しばらく典医寺にいるわ
 今回も…    きっとそうなると思うわ」
 
 
「王妃様の主治医様でしたか!
 それは御無礼仕りました」
 
 
ジョンフンは慌てて頭を下げた
 
 
「や〜ね やめて 私はただの医員よ
 
 もしジョンフンさんが許してくれるなら
 ガインさんが遊びに来てくれると嬉しいわ
 健康相談にも乗るし
 女人の美容情報もあるから!」
 
 
「はい ありがとうございます
 ガインにもそのように伝えます」
 
 
胸の奥に新たに生まれた悲しみが
小さな刺となってウンスの心を傷つけ始め
無理に明るく振る舞って見せるのも
もう  限界だった
 
 
「ジョンフンさん
 明日気をつけて向かってね
 また 開京で会いましょう」
 
 
ウンスはジョンフンに手を差し出した
一瞬 躊躇ったものの
ジョンフンも思い切って手を出し
握手に応じた
 
 
「ユ医員も
 開京まであとしばらく
 道中のご無事を祈っております」
 
 
穏やかなジョンフンさんの笑顔
私はちゃんと笑えてるかな
 
 
 
***
 
 
 
ウンスは部屋の寝台に倒れ込んだ
何から考えればいいのかわからなかった
 
 
ヨンを独り占めしたい
でも高麗ではそんな我儘は許されないのね
 
私のために帰京すると思ってた
また 勘違いしちゃった
 
丁度 奥方が開京に行くタイミングと
重なってたんだ
 
ヨンが 私だけのヨンでいるのはあと少し
このまま開京につかなければいいのに
 
 
ヨンのそばにいるために
なんとか高麗の風習を受け入れようと
自分の倫理観を曲げ
自分を納得させたぎりぎりの理由
それが
ヨンの郷妻とは開京で会わなく済む
この一点だったウンス
 
 
まだ開京に到着もしていないのに
早くも  思い描いていたことが崩れていき
ウンスの心は揺れていた
 
 
息苦しく感じて  窓を開けると
冷んやりした空気が頬を撫でて
ウンスの胸に急速に不安と悲しみが広がった
 
 
また  先が見えなくなり
まるで迷子になった幼子のように
泣き叫んで 誰かに助けて欲しかった
 
 
夜空に浮かぶ三日月を見上げ
自分に言い聞かせようとした
 
 
これまでもあり得ない状況を
何度も乗り越えてきたんだもの
大丈夫よ ウンス
きっとなんとかなるわ
 
 
ふと  口から歌が溢れた
 
 
ケ セラ セラ
 
なるようになる
 
未来のことは  誰にもわからない
 
気にしてもしょうがない
 
ケ…   セラ…
 
 
涙が溢れないよう月を見上げていたウンスだが
やがて歌声が震えて
とうとう涙が頬を伝うと
耐えきれなくなり
ひとり嗚咽をもらすのだった
 
 
 
 
 
 
***