「旦那様
 お待ちしておりました」
 
 
 
 
 
やっとヨンと二人きりになれて
ミンソは満面の笑みでヨンに話しかけた
 
 
「何故 此処に?
 其方が屋敷に入ること許した覚えはない」
 
 
ヨンは明らかに怒りを含んだ口調で告げたが
ミンソは上目遣いで甘えるようにヨンに答えた
 
 
「どうしても旦那様のお顔を見たくて
 父について参りました」
 
 
ミンソとは真逆に眉間に皺を寄せ
露骨に不快な表情を浮かべたヨン
 
 
この女人と同じ部屋にいるのは耐えられん
胸くそ悪くて吐き気がする
この空気に本人が気づいておらぬなら
やはり
この女人は何かの病だろう
 
 
「昨日も申した通り
 其方を娶ることはあり得ぬ
 
 某を旦那様と呼ぶことも
 チェ家にこれ以上関わるのも
 金輪際やめていただきたい
 お引き取りを」
 
 
ミンソに言いながらも
ヨンはウンスが心配で落ち着きなく
苛々と考えるような仕草を見せていた
 
 
口では拒んでいても
そわそわして
チェヨン様は
とても私を気にしているわ
 
武官だから女人に夢中な自分を
素直に認めるのが
恥ずかしいのかしら?
 
それとも
私を焦らす策なら
チェヨン様も罪なお人
 
でも
あの年増の女狐さえ消えれば
チェヨン様の方から
我慢できず
私を求めてくるはずよ
 
 
ミンソはヨンの顔を満足げに見た後
ランとジヒに見送られて屋敷の門まで出てきた
 
 
「どうやら あの妖魔が
 旦那様を誑かしているようです
 其方らも妖魔に騙されぬように
 くれぐれも気をつけなさい」
 
 
去り際にミンソは
二人に釘を刺し
輿に乗り込み去って行った
 
 
「サンホ        サンホはいるか!」
 
 
「はい ここに」
 
 
「俺がお連れした方はどこにおる」
 
 
「あの女人なら少し前に
 屋敷から出て行かれました」
 
 
「なんだと!
 何故出て行ったのだ?」
 
 
事情がわからぬサンホは
ランとジヒを呼んだ
 
 
「俺がお連れしたお方は
 何故 屋敷から出て行ったのだ?」
 
 
「さあ 私らはあの女人と
 口を聞いておりませんのでわかりません
 急に客間を飛び出して行きました」
 
 
ヨンは賛成事の娘との間に
何かあったのだろうと察した
 
 
「今後 賛成事とその息女も含め
 キム家の人間は誰一人屋敷に入れるな」
 
 
驚いたランは言った
 
 
「えっ しかし旦那様
 やっと旦那様がお戻りになって
 奥方様もお喜びでしたのに」
 
 
「奥方とは誰のことだ!?」
 
 
「ミンソお嬢様のことでござ…」
 
 
「お前はどこの使用人だ
 誰に仕えておるのだ」
 
 
「私はチェ家の使用人です」
 
 
「チェ家のためを思って
 ミンソお嬢様にも
 一生懸命尽くしております」
 
 
 
 
 
ランとジヒは胸を張ってヨンに訴えたが
ヨンは呆れと怒りで奥歯を噛み締め
何度か深呼吸して気持ちを耐えた
 
 
「いいか よく聞け
 賛成事の息女が
 チェ家の奥方になることなど
 断じてない
 今後
 俺の許しなく屋敷に入れたものは
 暇を出すゆえ
 この屋敷から出て行け
 わかったな」
 
 
「旦那様!
 御言葉ですが
 旦那様はあの妖魔に
 操られていらっしゃるのではありませんか?」
 
 
ランの言葉に
ヨンは怒りを通り越し 静かに告げた
 
 
「もうよい
 
 サンホ
 今をもってお前たち全員 暇を出す
 直ちに屋敷から出て行け」
 
 
ランとジヒは
何故ヨンから暇を出されたか
意味がわからなかったが
やはり旦那様は妖魔に誑かされていると思い
待ち続けたミンソが気の毒になり
ウンスを憎らしく思うのだった
 
 
「旦那様 お待ちください
 急に追い出されても
 わしらは他に行くところもありません
 どうか
 追い出すことだけはお許しください」
 
 
ランとジヒが憮然とする中
サンホがヨンに平伏して謝った
 
 
そこへ
ウンスの居場所を知らせにペクとジホが来て
ヨンの表情とサンホの様子
テマンから聞いた話から
経緯を察したペクがヨンに耳打ちした
 
 
はらわたが煮えくり返る思いのヨンだったが
ひとまず
ペクの意見を聞き入れ
 
 
「サンホ
 出て行く先がないのなら
 お前たち全員 謹慎とする
 
 謹慎中は使用人部屋と厠 厩以外
 母屋や舎廊棟 内棟 客棟 離れ
 蔵への入室も禁じる
 厨房等の水場も手裏房の立ち会い以外では
 使用禁止だ
 
 謹慎を解くまでは
 決して敷地内から出るな
 外と連絡も取るな わかったな」
 
 
「わかりました 旦那様」
 
 
サンホに促され
ランとジヒもしぶしぶヨンに従ったが
ヨンが屋敷から出て行くと
ランはジヒに言った
 
 
「それにしても妖術とはすごいもんだね
 真面目で純情な旦那様が
 すっかり誑かされていらっしゃる
 妓生の色仕掛けより効果があるんじゃないか」
 
 
「オンマ ほんとに怖いね
 ミンソお嬢様が気の毒だ」
 
 
「お前たち
 もう屋敷の物にも手をつけるなよ
 今度やったら本当に
 屋敷を追い出されるだけじゃ済まないぞ
 
 それにさっき
 客間が異様な臭いがしていたが
 何かこぼしたのか?」
 
 
「へっ? 異様な匂い?
 私は気づかなかったよ
 もともと私らは鼻が鈍い方だからね」
 
 
「奇妙な臭いがしたようだが…
 確か今朝
 賛成事様とミンソお嬢様が来てから
 屋敷内も妙な臭いがし始めた」
 
 
「そう?
 あたしも気づかなかった
 でも もし変な匂いがしたなら
 きっとそれは妖魔の匂いじゃないの?
 ああ 恐ろしい
 二度と屋敷に入れたくないね」
 
 
 
***
 
 
 
ジホに屋敷の見張りを頼み
ペクと共に手裏房宿まで来たヨン
 
 
ウンスに話を聞こうとしたが
泣き腫らした顔で眠るウンスを起こさぬよう
マンボ姐に止められて
テマンに詰め寄っていた
 
 
「ちょっと待ちなよヨン
 小猿に当たるんじゃないよ」
 
 
「当たってなどおらぬ
 事情を知りたいだけだ」
 
 
「チェ尚宮がもうじき来るらしいから
 その時に皆の情報を合わせるよ
 今 話しても二度手間だ
 
 とりあえず
 ヨンもテマンもクッパ食って待ちな」
 
 
マンボ姐は懐から匙を取り出し二人の前に置いた
 
 
半刻ほど経ち
チェ尚宮は
やって来るなりヨンの頭を叩いた
 
 
「馬鹿もん!
 全くお前はウンスから目を離して
 何をやってたんだ!」
 
 
「叔母上 叩くな
 俺は賛成事にちゃんと断っていたのだ」
 
 
「ウンスから離れる必要があったのか!」
 
 
「イムジャに嫌な話を聞かせたくなかったゆえ
 書斎で話しておったのだ!」
 
 
「この戯けが!
 それでは賛成事らの思う壺ではないか
 昨日のことを忘れたか?
 
 ウンスが一人になった隙に口撃して来るんじゃ
 ウンスの目の前で縁談を断ってやれば
 ウンスも安心しただろうに
 
 正面突破しか能の無い朴念仁では
 ああいう鼠や狸には太刀打ちできぬわ
 この馬鹿者」
 
 
ヨンは唇を噛んだ
 
 
「ちょいと
 チェ尚宮も落ち着きなよ
 話が進まないよ」
 
 
それからテマンがもう一度
ミンソとのことを話したが…
 
 
「あいつ
 て、大護軍のこと旦那様って呼んで
 ま、まるで自分が奥方みたいな顔してた
 サンホの女房たちも
 奥方様って呼んでたし
 
 ヌ、ヌナが何か盗んだとか言い出して
 そ、それにチェ家の人間に
 馴れ馴れしくするのは許さないって
 
 あ、あと
 チェ家の庭が見事だって
 自分の家みたいに自慢して
 あいつがサンホの女房に
 庭に案内してやれって命じた
 
 そしたら
 サンホの女房が
 妖魔は怖いから案内するの嫌だって
 
 そ、それから何か争うような声が聞こえて
 ヌナが〝返して〟って叫んで
 
 オ、オイラ 中に入ろうとしたら
 ヌナが飛び出して行って…」
 
 
テマンは懸命に伝えようとするが
なかなか細かいところまで
伝えられない自分がもどかしく
頭を掻きむしった
 
 
「〝返して〟と叫んだなら
 ウンスは何か取られたのか?」
 
 
「たぶん
 
 何を取られたのかわからないけど
 あいつらが
 ヌナを役所に突き出すって怒鳴って
 ヌナは…
 ヌナは泣いてた
 それで 部屋を飛び出したから
 オイラ 後を追って…」
 
 
「テマナ
 そもそも 何故 ウンスから離れたのだ」
 
 
「チェ、チェ家に着いた時から
 異様な臭いがしてたから
 何かされるんじゃないかと心配になって
 オ、オイラ 原因を探ろうとして
 屋敷を調べてたら
 その隙に あいつらヌナに近づいて…
 す、すみません」
 
 
「異様な臭いじゃと?」
 
 
チェ尚宮が怪訝な顔をした
 
 
「ああ 俺が客間に入った時も
 悪臭がしておった」
 
 
「屋敷に何か仕掛けられたかも知れんぞ」
 
 
ウンスが起きてからも
改めてミンソと何があったか
様子を聞くことにした面々
 
 
「手裏房が持っている情報とはなんだ?」
 
 
ヨンが聞くとマンボがぼそぼそと話しだした
 
 
「昨日 凱旋中に大通りで
 天女を襲った賊がいたろう
 
 彼奴らの雇い主がどうやら
 チェ家の使用人と繋がってるらしい」
 
 
「なんだと!?」
 
 
ヨンもチェ尚宮も驚き 立ち上がった
 
 
「賊を集めた賭場の主人は
 サンホの嫁の元夫の兄貴だ
 
 どうやらサンホの嫁から
 今回の天女襲撃の話を持ち込んできたらしい」
 
 
「だとすれば
 雇い主は賛成事の娘か奥方か?!」
 
 
ヨンが呟くとペクが驚いて
 
 
「賛成事本人じゃないのかい?」
 
 
「賛成事が仕組むには 計画が杜撰過ぎる
 捕らえた男の話では
 襲撃の前日に急遽集められ
 雇い主は貴族の女人らしい
 そして
 派手な形の下女が繋いでいたと吐いた」
 
 
「派手な形の下女なんざ
 開京じゃサンホの嫁御ぐらいだよ」
 
 
マンボ姐がボヤくと ペクがヨンに確かめた
 
 
「お前もさっき見ただろう
 サンホの嫁や連れ子の格好を」
 
 
「いや 覚えておらん」
 
 
「ヨンの目にはウンスしか見えてないんだよ」
 
 
ペクが呆れて目を回し チェ尚宮が言い捨てた
 
 
「あの者らは チェ家の恥晒しじゃ
 
 それが事実だとすれば
 悪臭がしていたことと言い
 ウンスにとってチェ家の屋敷は危地じゃ
 テマナ
 ウンスはチェ家で何も飲み食いしておらぬな?」
 
 
テマンは一瞬考えて何度も頷き
 
 
「茶を飲もうとして溢して
 火傷したって言ってたから
 飲んでないと思う」
 
 
「なんだと!
 イムジャは火傷したのか!」
 
 
「ヨン 落ち着きな
 もう手当てしたよ
 だが 確かにウンスから妙な臭いが
 微かにしてたよ
 念のため洗って薬草で湿布してやったから
 大事無いとは思うがね」
 
 
「飲んでおらぬならよかった
 茶を溢したのは不幸中の幸いかも知れぬぞ
 茶に何か仕込まれておったやも知れんからな
 飲んでいれば今頃どうなっていたか…
 
 マンボや
 すぐに新しい使用人を探しておくれ」
 
 
「その下女はすぐに捕らえよう
 襲撃犯は
 下女の顔を覚えておると言うておった」
 
 
「サンホの嫁を捕らえたところで
 賛成事一家が素直に自白するとは思えぬ
 ランやジヒに罪を着せ
 余計に警戒して尻尾を掴みにくくなるわ
 先ずは 確実な証拠を掴まねば」
 
 
チェ尚宮が言うと マンボが合図して
ペクが奥から ひとりの女人を連れてきた
 
 
「副隊長…    いえチェ尚宮様
 お久しぶりでございます」
 
 
深く頭を下げた女人が顔を上げると
目に涙を溜めて懐かしそうにチェ尚宮を見つめた
 
 
「トンマン!」
 
 
 
***