NSCに通うようになったマカナイX。
その当時NSCは赤坂にあった。
お互いバイトを週5ぐらいでやりながら、NSCに通った。
NSCの授業は、週に3回あった。
月曜に演技の授業と発声の授業があった。
演技の授業では、お芝居の台本を覚え、演技の指導をしてもらった。
発声の授業では、竹刀を持ったイカツイ先生が常にウロウロしていて、ふざけたりしていると竹刀で叩かれた。
木曜はネタ見せの授業とダンスの授業があった。
ダンスや演技、発声の授業は、ネタと関係ないと思う人もいて、授業に来ない人も結構いたが、僕達は全部出席した。
全部真面目に出席して、先生達に気に入られるのも生き残る為に大事だと思っていたからだ(笑)
木曜のネタ見せは、毎週違う先生が観て下さって、ダメ出しをするという感じだった。
ネタは、ライバルである生徒が観てる中でする。
だから基本的にみんな笑ってくれない。
やっぱりみんな当時は尖っているから、他のヤツのネタで笑うもんかという気持ちが強いのだ。
そんな中でネタをするから、
「自分は面白い、自分は松本人志だ」
と自信満々でNSCに入って来たのにウケなくて心折れてしまってすぐ辞めて行く人が続出した。
入学式や最初の自己紹介の時にあんなにイキっていたヤツもどんどん自信をなくして行くのが分かった。
僕は嬉しくて仕方なかった(笑)
「もっとやめろーー!!いぇーい!!」
と思っていた。
しかも、ほとんどの生徒が、だいたい高卒とかですぐにNSCに来てるから、舞台経験もなく、人前でネタを見せる事も初めてで、ネタを作るのも初めての人が多かったから、そこで初めて現実を突きつけられるのだった。
ネタを作るのも初めてで、ネタを見せるのも初めてなのだから、ウケなくても当然だし、これからウケるように学ぶ為の学校なのだから、気にしなくてもいいはずなのだが、みんな自分を天才だと思って来ているから、ショックが大きいのだろう。
面白い芸人もいたのに、ウケなくて心折れて自信失って辞めて行く人もいて、それはすごく勿体なかった。
そんな中で自分達は、年齢もその当時24歳とかで、年長者の部類だったし、経験があったからよかった。
色んな事務所のネタ見せに行って、笑い難い状況でネタをする事にも慣れていたし、ウケなくても何とも思わなかった。
あと、自主ライブでネタを定期的に客前でやっていたというのも自信になっていた。
持ちネタも、既にいくつかあったというのも有利だった。
僕達のあの4年間は決してムダではなかったのだ。
僕達マカナイXは、ネタ見せの授業で、ドカンドカンと爆笑を取っていた。
他にも同じように、舞台経験がすでにありそうな人達が最初は評価が良かった。
だが、僕達は大体怒られていた(笑)
そうなのだ。
ご存知の通り、
ネタの内容がテレビじゃ出来ないようなブラックなネタや不謹慎なネタや、何でもありなネタだったからだ(笑)
木曜の講師の山田ナ◯スコ先生に、
「そんなネタやってるなら絶対劇場に出さねーぞ!!!」
毎回そう言われた(笑)
でも、全く言う事を聞かず、翌週またヤバいネタをやっていた(笑)
僕はその時、
「いや、ブラックなネタとか不謹慎なネタをするしないじゃなくて、どうやったらこのネタがもっと面白くなるかを教えろよボケ!!!」
と思っていた(笑)(←今は思ってません(笑))
「こっちはテレビで出来ないのも分かってこのネタをやってるんだよ!!だからこういうネタをやるやらないの話なんかしてねーし、お前とそんな事を議論するつもりもねーよ!!」
と思っていた(笑)(←今は思ってません(笑))
その時僕は、とにかくNSCで生徒が沢山いる中で、埋もれてはいけないと思っていた。
普通にネタをやっていても埋もれてしまうと思っていた。
そして、ライバルである生徒達、目の前にいるこいつらを何としても笑わせたいという気持ちが強かった。
こいつらを笑わしたらオレの勝ちだ!と思っていた。
オレたちが1番面白いんじゃ!!と知らしめたかったのだ。
ネタの内容とかテレビに出れないとかそんな事今このネタ見せの戦いの中で関係ないと思っていた。
僕は、テレビに出れるネタ出れないネタ関係なく、不謹慎ネタでもちゃんとウケるネタを作れる芸人は、テレビ用のネタも作る事が出来ると思っていた。
そして、この生徒達をドカンドカン笑わせれば、先生にも覚えてもらえるし、頭角を現す事が出来る。
普通にテレビで出来るようなネタを作っても、ズバ抜けたセンスあるネタを作らないと頭角を現す事は出来ないし、僕達にはそこまでズバ抜けたネタは今は作れないし、それだと埋もれてしまうと思っていた。
テレビ的なネタをやるのは、卒業して正式に吉本に所属出来てからでも遅くないと思っていた。
その時点では、卒業の時に何組吉本に所属出来るのかも分からない状況だった。
だからとにかく生き残る事に焦点を絞った戦いをしたのだ。
そんな事まで考えているなんて先生は思っていないだろう。
とにかくどんな手を使っても笑わせて頭角を現してやる!
案の定、尖りまくっていた生徒達は、僕達のネタを観て爆笑した。
普通のポップなネタよりも、尖っているからブラックなネタとかの方がそういう人達は好きだし笑うのだ。
先生に怒られてても、
「いや、ウケたでしょ?ウケたって事は面白いって事でしょ?何が悪いの?」
と思っていた。
芸人は笑わせてなんぼだ。
目の前の人を笑わせるのが仕事なのだ。
そして、笑わせてる。
劇場は劇場。
テレビはテレビ。
その時その時でネタを使い分ければいい。
老人ホームでは老人向けのネタをする。
幼稚園では幼稚園向けのネタをする。
男子校では男子校向けのネタをする。
それと同じだ。
まさに僕は、ライブで爆笑問題さんが不謹慎なネタをやりつつも、テレビではテレビ用のネタをやり、使い分けているのを見ていたのだ。
かつてのツービートがそうだったように。
僕達を否定するという事は、ツービートや爆笑問題を否定する事になる。
それを分かって僕達を否定するのか??
ここはテレビじゃないのだからなぜテレビ向けのネタをする必要があるのだ?
お客さんもいないし、視聴者もいない。
なのになぜいない人にネタを合わせないといけないのか。
今の自分達の笑わせる相手は目の前にいる生徒なのだ。
そういう気持ちだった。
なんでもかんでもテレビテレビ、テレビじゃない時でもテレビで出来るネタを意識しろっておかしくないか??
だってここはテレビじゃないんだから。
そのテレビ至上主義みたいなのが腹立たしくて仕方なかった。
芸人が全員テレビの駒だと思うなよ?という怒りがあった。
だから言う事を聞かなかったというのもあった。
でも先生の言っている事も分かる。
養成所側としては、テレビスターを作りたいのだ。
劇場で安心して観てもらえる芸人を作りたいのだ。
今観てるのは生徒だけど、もう今からテレビや吉本の劇場を意識したネタを作れるようになってほしいのだ。
なので、講師としては、テレビで出来ないような不謹慎ネタやブラックなネタは、辞めさせようとするしかないのだ。
山田ナ◯スコ先生も、僕達のこれからの将来の事を考えて、「そういうネタはやるな」と怒ってくれていたのだ。
それは芸人に対する、生徒に対する愛情だったのだ。
なので、とても良い先生だったと今では思うし、感謝している。
でも当時の僕は、そんな事も分からないで、言う事を全く聞かなかった。
先生の愛情に気づくのはもっと後になるのである(笑)
今思えば言う事を聞いておけばよかったかもしれない(笑)
山田ナ◯スコ先生すいませんでした!!!!
相方も僕の作るヤバいネタが好きだったし、面白いと思ってくれていたが、先生の言う事を聞こうよと当時から言っていた。
でも、僕は言う事を聞かなかった(笑)
なぜなら、更に僕の暴走に拍車をかける援軍が現れたからだ。
それは、土曜日のネタ見せの授業を担当していた、永峰先生だ。
永峰先生は、元フジテレビのディレクターで、
「オレたちひょうきん族」を作っていた人だ。
僕と同じ才能を持ち、僕の最大の理解者でもあり、僕の第2の父でもある、(←勝手に思ってるだけ)
「ビートたけし」
と一緒に仕事をしていた人だ。
そして、渡辺正行さんと一緒に、ラママ「新人コント大会」を立ち上げた人。
「爆笑問題」をデビューの時から観て来た人で、「笑いの殿堂」で爆笑問題と仕事もしている。
唯一その先生だけが、僕達のネタを頭ごなしに否定せずに、ちゃんとネタと向き合ってくれて、そのネタをどうすればもっと面白くなるのかを考えてくれたのだ。
まるで僕の戦略とか考えている事を汲み取ってくれているように感じた。
それがすごく嬉しかった。
そして、たまに褒めてくれた。
「お前達は、そういうネタを突き詰めていけばいい。」
そう言ってくれたのだ。
毎回褒めてくれた訳ではないが、僕はその一言に凄く救われた。
そして僕は、
「ホラ見ろ!!!分かる人には分かるんだよ!!!!
この人なかなか見る目あるやんけ!!
ビートたけしと爆笑問題を見て来た人が言ってるんだぞ???
やっぱり僕のやってる事は間違ってなかったんだ!!!!
木曜の先生は何も分かってない!!!!!」
そう思った(笑)
永峰先生は、基本的に芸人の個性を大事にする先生だ。
だから、僕達のネタの方向性とかそういう事を全否定するような事は言わない。
僕は、
「永峰先生が認めてくれている」(←勝手にそう思ってただけ(笑))
という事実だけを頼りにそこから1年間戦う事になるのである(笑)
木曜の先生よりもどの先生よりも永峰先生の方が1番偉い人だからだ(笑)
僕は、木曜の先生に怒られても、相方にテレビ的なネタをしようと言われても、
「でも永峰先生が認めてくれてるし」
という事実一点張りで言う事を聞かなかった。
もし、永峰先生も僕達のネタを否定していたら、もしかしたらそういうネタを辞めていたかもしれない(笑)
なので、永峰先生のせいなのだ(笑)
どうして辞めさせてくれなかったんですか(笑)!!
もしあの時永峰先生も怒ってくれていれば、僕達は今頃テレビに出れていたかもしれないのに(笑)!!!
そうして僕達は毎週、木曜に怒られ、土曜に受け入れられのねじれ現象を続けていくのである。
今は違うと思うが、20年以上前のNSCは、まさに暴力教室だった(笑)
校長は横澤さんなのだが、入学式以来見る事はなかった。
基本的にNSCを取り仕切っているのは、副校長と呼ばれる人だった。
その人がとにかくすごかった。
毎日どこかで誰かが殴られたり蹴られたり、かかと落としされたりしていた(笑)
遅刻したとか、挨拶が出来ていなかったとか、ちゃんとした理由がある時もあったが、
「なんか気にくわない」
という理由で、かかと落としをくらっていた人もいた(笑)
とにかく厳しかった。
なので、1年間毎日緊張感があって、常にピリピリとした感じで、一瞬も気を抜けない日々だった。
そんな状態なので、とにかくどんどん生徒が辞めていった。
夏頃には半分ぐらいになっていた。
僕達のコンビは、ほとんど殴られる事はなかった。
なぜなら相方は元ヤンキーなので、そういう理不尽な人間の中で生きていたから、空気を読む事が出来た。
そして僕も、部活や塾が厳しくて、先生や先輩の機嫌を伺ったり、ピリピリした空気の中で立ち回る術を自然と身につけていた。
家でも、ゲームで負けると壁を殴る兄がいたので、理不尽な人への耐性が出来ていたのかもしれない(笑)
子供の頃や学生時代の経験がこんな所で活きて来るとは思わなかった(笑)
しかも、僕達は同期の中では年を取っていて、社会に出てバイトや色んな経験をしているので、高卒とかで調子に乗って入学して来ている人達に比べたら、
「どういう事をしたら怒られないか」
とか、
「今日は機嫌悪そうだな」
とか、
そういう事が少しは分かっていた。
副校長は、芸能界というのは、そういう空気を読んだり、人の機嫌を見抜いたりするのも生き抜いて行くには大事だし、才能の1つだという話を何度もして下さっていた。
そして時には理不尽な事で怒られたりする事もあるから、そういう環境でも上手くやっていけないとダメだと話していた。
その話は最もだと思うし、説得力もあったから、ただただ意味もなく厳しくしてる訳じゃなくて、僕達を育ててくれているんだなと感じる部分もあった。
だが、半分は、
本当に機嫌が悪いだけだった時もあったと思う(笑)
そうして辞めて行く人がどんどん増えて行くのを見て僕は、
「よっしゃよっしゃ!!どんどん辞めろーーーー!!!」
と思っていた(笑)
1997年 北野武監督 映画「HANA―BI」公開
1997年「爆笑問題の日本原論」発売