こんにちはニコニコ

 

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どうしても忘れられない7年前の

311の記憶

 

 

 

311の記憶前半はこちらから

 

 

私は妊娠7ヶ月になる頃

311が起きた

 

 

 

実家茨城へ物資を運ぼう

と夫となったわけだが、

 

 

実家の母からの返事は

 

 

NO(=こっちに来るな)

 

 

だった。

 

 

 

 

 

その理由は。。。

 

 

■まだ余震が続いている

(震度5越えもあった)

 

 

■道の状況が定かじゃない

(どの道が通れるか情報が錯綜していた)

 

 

そして1番の理由は、

 

原研(=東海村にある原子力研究所)が

どうなるか分からない。

 

 

そんな中、

妊娠している私が行くのは危険過ぎる

 

 

と言うものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

私も含め、我が家は

 

 

 

臨界事故経験者

 

 

 

全く目に見えないものに対して

自宅待機を余儀なくされ

1日学校も休校

 

 

 

 

それほど原子力施設が近い。

 

 

 

 

これだけ色んなところで

色んな事故・被害が起きている

 

 

いつ、どんな事が起きても

おかしくない。

 

 

そう思い、母はそう伝えたのだと

今となれば思う。

 

 

 

 

けれど、当時の私は

道の状況と余震が少し落ち着くであろう

最初の週末に行くことにした。

 

 

 

本当に言うこと聞かない娘だね滝汗滝汗

 

 

 

 

こんな近い未来

どうなるか分からないや

 

 

 

ここで何か家族におこって

会えずに

終わるようなことがあっては

 

ここで

ただただ何もせず待つと言うのは

あまりにも悔いが残る。

 

 

 

 

残った私たち、

それが生き残ったかたちでいいのか?

とも思えた。

 

 

 

 

そんなこんなで、

車で茨城に向かうと

次第に高速道路に亀裂があり

下道も閉鎖しているところがあるなど

いつもとは違う。

 

(今でも修復せずに

行き止まりのままの道もある)

 

 

 

どの屋根もブルーシートに覆われており

塀は軒並み崩れ落ちている

 

 

それが当たり前の光景。

 

 

 

私が知っている風景は

もうそこにはなかった。

 

 

 

 

実家も

見た目はいつもと変わりは

しないものの

『半壊』扱いになるほど

床が傾いた。

 

 

浜辺近くの叔母の家は

運良く床上浸水には

ならずに済んだが

 

 

数センチの床の高さが

低かったら

この状態はなかったようだ。

 

 

 

近所は軒並み床上浸水

 

車が流れた形跡もある。

 

家電・家具が

道路沿いに

山積みにもなっていた。

 

 

高台の避難所生活も続いた。

 

 

 

 

幸いにも

実家は昔ながらの土間のような

スペースもあれば

 

農家でもあるから

野菜もお米もある。

 

 

農家、大家族の底力を感じた。

 

 

火を焚いての料理はお手の物

 

 

若い弟は自転車で

周辺の状況を確認しに行く

 

 

みんなが助け合って暮らしている

姿を見て安心した。

(私が到着した頃には

電気ももちろん再開はしていた)

 

 

 

 

それでも、

本当に情報を欲している

現場の人に情報が足りていなかったり

 

 

幼児を持つ家族は

何度もの余震で子供が怖がり

ストレスが溜まっていたり

 

 

 

福島の祖母の家は

風評被害で

今までの原木しいたけ作りを

続けることができなくなったり

 

 

 

福島原発の近くに住む親戚は

家族ばらばらで

何年も住むことになったり

 

 

 

色々と考えさせられる事が

この一連の地震で起きた。

 

 

 

 

これは極々一部だし、

 

東北に住まれている方は

もっと色々な事があったのは

想像できる。

 

 

 

 

それでも私にとって

 

 

忘れられない

 

 

未だに爪痕が残る311