ヒロコ先生との90分は目から涙だけでなく、鱗が落ちた90分間でした。

まさか自分が初めてお会いした方と話して泣くなんて想像もしてなかったけれど、ヒロコ先生と話していたら、涙がぼろぼろあふれてきました。

本当に濃い90分でしたが、一番の気づきは下記の2つです。

1.今までわたしは母を守ろうと必死に頑張ってきたけれど、もうその必要はないということ。

2.今までの辛かった経験は全てに意味があり、今の私のかけがえのない財産になっていること。

まず、1の母を守ってきたことについて書きたいと思います。

1.母をずっと守ってきた

母は中高一貫の名門女子高から大学に進学し、総合商社の一般職を3年勤めたあと、お見合い結婚をしました。パートを少しやっていたこともあるけれど、ほぼ専業主婦として家事を完璧にこなしてきた。母の人生は隙がない理想的とされる人生かもしれません。


母はとても常識的で学歴や企業ブランドなどのステイタスを重視しており、母のことは好きだけれどずっと息苦しさも感じてきました。


子どもの頃から比較的成績が良かった私が第一志望の大学に落ちたとき、母は泣きました。泣いて浪人しても良いよと言いました。


わたしはもう一年同じ勉強をする気はさらさらなく、受かった大学に進学しました。母は人様から見たメンツが大事なのだろうととても落胆したことを覚えています。


そして大学卒業後、大企業に総合職として就職しました。そこに内定したときに一番喜んだのは紛れもなく母でした。これで少し希望の大学に行けなかった罪悪感を払拭することが出来たかなと思いました。


このような経験から言葉は悪いけれど、ずっと母はわたしのことを周りの親戚や友達に自慢する道具のように扱っているのではないかと思っていました。


しかし、本当は違いました。


それはわたしへの母の愛だったのだと、


母なりの愛情の示し方だったのだとヒロコ先生が教えてくれました。


周りに自慢したいという気持ちもあったのかもしれないが、より偏差値の高い大学に行ったほうが、大手の安定した企業に勤めるほうが、娘がより幸せ人生が送れるだろうという思いからの愛だったのです。


母はわたしが新しいことに挑戦したり、一生懸命何かをやっていると、いつも反対したり、ネガティブな側面ばかり言ってきます。

それは娘が自分の知らない道で不幸な目に遭ってほしくない、無理をして体を壊して欲しくないという愛だったのでしょう。


しかし親からの愛は概して、子どもの望む形ではもたらされないというヒロコ先生の言葉は真理をついていると思う。


今までずっと母を悲しませたくなくて、母の期待に応えたくて、母を守りたくて、必死に頑張ってきたのだねとヒロコ先生に言われてもう涙が止まりませんでした。


27年間ずっと母のために頑張ってきたけれど、もう卒業しようと思います。


母の育ってきた時代と現代では時代背景も全く違うし、母の期待通りに生きても私が幸せじゃなかったら何の意味もない。


自分の人生にここまで母が影響していることに気づいてなかったけれど、人は理解をしたらそこから一歩踏み出すことが出来るのだと思います。


これから母とは少し距離をおいて、自分の進みたい道についてじっくり考えていきたいです。道が見つかったら、反対されてもじっくり話して、イキイキした姿を見せたいと見せていきたいと思います。