野生の少年(L'Enfant sauvage) | CAHIER DE CHOCOLAT

野生の少年(L'Enfant sauvage)


この作品はこれまでに観たことがなくて、今回初めて観た。こんなにすぐにエンドロールになった映画は初めてかもしれないというくらいだった。もちろん上映時間が短いわけではなく、体感としてほんとうにあっという間だったという意味で。とにかく“野生の少年”ヴィクトール(ジャン=ピエール・カルゴル)がどんな反応をし、どんな変化があるのかが気になってしかたがなくて、何も見逃さないようにしたいとスクリーンを凝視している間に時間が一瞬で過ぎていた。音への反応や発声、言語の習得過程については特にとても興味深かった。ヴィクトールとことばというものを教えるイタール博士(トリュフォーが演じている)と生活の世話をする家政婦のゲラン夫人(フランソワーズ・セニエ)、この3人の関係性が少しずつ作られていくのを見て、時にほほえましく思ったり、時に落胆したりしながら、「人間は人間以外の動物とは違う」、「人間もやはり動物の一種にすぎない」という相反することを同時に考えていた。ふつうの子どもでも、ひとりで勝手にがつがつ食べ始めてはいけないとか、きちんと服を着て靴を履くとか、教えられないとわからない。犬に「待て」を教えるとか、猫にトイレの場所を覚えさせるというのも、根本的には同じことだろうと思う。でも、どうして道具を使って食べないといけないのかとか、どうして裸足ではだめなのかとか考えてみると、そこに明確な正解があるわけでもない。あるのは誰かが決めたルールだけ。そういえば、ヴィクトールはチョークを左手で持って書き始めたけど、それは矯正されていなかった。日本だったら直されていたかもしれない。野生化した少年というのはとても極端な例とはいえ、環境が人を作るというのはやっぱり事実だし、導いてくれる人がいるのといないのでは、その人の人生はまったく違うものになる。この映画の最初には、「Pour Jean=Pierre Léaud(ジャン=ピエール・レオに捧げる)」ということばが映し出される。ヴィクトールとイタール博士の関係性はレオとトリュフォーに重なり、トリュフォーとアンドレ・バザンにも重なる。トリュフォーはやっぱりとても素敵だった。