山口出張での「のんびり散歩」なのですが、長くなってしまいまして・・

                                        すっ飛ばしてください!

 

亀山公園 

 

 

 フランシスコ・サビエル記念聖堂に隣接した「亀山公園」からは山口の町が一望できます。

 

      ( ↑ 公園から北方向を見る  瑠璃光寺 五重塔が見えています )

 

                              ( ↑ 瑠璃光寺 五重塔 遠景 )

 

         ( ↑ 公園から東方向を見る  龍福寺の屋根が見えています )

 

 かつて毛利秀元が慶長元年(1596年)にこの場所に長山城の築城を計画していました。

断念した長山城跡を明治33年(1900年)に公園として整備したのがこの亀山公園です。

山の形がカメの甲羅に似ていることから、この名前がついたそうです。

 

  ( ↑ 公園から北東方向を見る  八坂神社の鳥居との屋根が見えています )

 

八坂神社 

 公園の道を下り、一の坂川を横切ります。

 

 

 しばらく歩くと「八坂神社」の大きな鳥居が見えてきました。

 

 

 

 

 二十四代 大内弘世(ひろよ)(1352-1380)が室町時代の応安3年(1370年)に

京都の祇園神社から勧請した神社です。

 

 

 

 

 

 本殿は三十代 大内義興(よしおき)(1495-1528)が永正17年(1520年)に再建しました。

大内氏が京都に多くの影響を受けていたことを伺える建造物です。

  

 

 

 

龍福寺 

すぐ近くに、「龍福寺」があります。

 

 

 かつて この場所は大内氏の館があり、二十四代 弘世(ひろよ)(1352-1380)

以後の歴代が政務をしていた場所です。

 

 

 

 毛利元就の長男 毛利隆元(たかもと)が大内氏館跡に大内義隆の菩提寺として建立しました。

大内氏と毛利氏は深いつながりがあります。

 

                                    ( ↑ 大内義隆の墓 )

 

 毛利隆元は毛利元就の長男ですが14歳の時に大内義隆の元に人質として送られます。

嫡男を人質として大内氏に出したことで毛利氏は大内氏より絶大な信頼を得ます。

隆元はその年に義隆の元で元服して名前も義隆の隆を賜り隆元と名乗ることが許されます。

 

 時代を遡ると毛利元就の時代になるまで毛利氏は大内氏に従属していました。

そうすることで、毛利氏は時代を生き延び 力を蓄えてきました。

毛利氏にしてみれば、大内氏によって自分がこれまで生きることが出来た恩義も

あるはずです。

 

 

 大内氏二十四代 弘世(ひろよ)(1352-1380)の時代からこの山口の地を京に模して

町を造り始め大内氏繁栄の礎を固めました。

 大内氏の領国は中国・九州地方までに及び西日本の政治経済の中心になります。

また海外との交易や異文化を移入する山口に京での戦乱を避けた公卿(くぎょう)や

僧侶などが集まり、当時の山口は京をしのぐ豊かさと文化を持っていました。

まさに大内文化を華開かせたのです。

 

 

 

                          ( ↑ 大内 義隆 )

 

 伝えられていることによると三十一代 大内義隆(1528-1551)は政治や軍事など

争うことよりも文雅を愛し京都貴族の風尚を尊んだそうです。 

大内氏の勢力に陰りが見えてくると、毛利氏は相反して勃興していきます。

義隆の時代、軍事担当の重臣は陶 晴賢(すえ はるかた)でした。

義隆は陶を遠ざけるとこの陶が謀反を引き起こすことになります。

このことから大内氏の滅亡への道がはじまります。

義隆は滝の法泉寺から長門大寧寺に敗走したのち自刃します。

この時点で栄華を誇った大内氏の正統は断絶します。

 

 

 一度は実権を手に入れた陶(すえ)でしたがすぐに毛利氏により攻められ

陶は宮島 厳島の戦いで自刃し果てます。

皮肉な話だと思います。 

争いよりも文化を愛する統治者がやっと生まれてきたのに、まだ時代は成塾せず

追いつくことが出来ていなかったのです。

 

今八幡宮 (いまはちまんぐう)

「今八幡宮」は大内氏が入府する以前より存在していたものと言われています。

 

 

 文亀3年(1503)三十代 大内義興(よしおき)(1495-1528)が社殿を造替ます。

当時、大内氏は明との交易に加え遣明船も独占していました。

大内氏は増々栄えて莫大な財力を持っていました。

 

 

 「今八幡宮」はそれを象徴する荘厳なものです。

現在国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

 梁の上に置かれた蛙股(かえるまた)です。

 

                                    ( 画像 お借りしています  )

 一文字に三つ星は毛利氏の家紋です。

絶頂期の大内氏を象徴する建造物の中に毛利氏の家紋が存在しています。

 この今八幡宮は何度も補修・修復が行われています。

大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により今八幡宮は厚く保護されてきました。

神領が寄進され、修繕の際の費用は藩より資金を出したそうです。

今八幡宮に対して特別な尊崇を持っていたことを思わせます。

 

豊栄(とよさか)神社・野田(のだ)神社 

 

                                ( 二社共通の鳥居 )

 

 ひとつの神社の中にふたつの神社が存在しているように見えます。

境内は共通になっているし、社務所もひとつしかありません。

境内、左手が野田神社、右手が豊栄(とよさか)神社です。

 

                                         ( 豊栄神社 鳥居)

 

 

 豊栄神社の祭神は毛利元就公です。

 

                                         ( 豊栄神社 神門 )

 

                                         ( 豊栄神社 拝殿 )

 

                                     ( 豊栄神社 拝殿 境内 )

 

 野田神社の祭神は長州藩最後の藩主で明治維新での功労者、毛利敬親(たかちか)です。

 

                                          ( 野田神社 鳥居 )

 

 

                                        ( 野田神社 神門 )

                                    

                                         ( 野田神社 拝殿 )

 

                                      ( 野田神社 絵馬堂 )

 

                                       ( 野田神社 絵馬堂 )

 

                                ( 野田神社 豊栄神社 境内 )

 

七尾山トンネル

 雲谷庵に向かう途中、右手に大きなトンネルが見えてきました。

 

 

 「七尾山?」尾が七つある動物が暮らす山ということでしょうか。

それか七つの尾根の山?

地図上でこの七尾山を見てみました。

 

                               ( Yahoo 地図より 七尾山 空撮 )

 わかりますか? ①のポイントは私が写真を撮ったあたりの場所です。

その場所から右方向にトンネルがあります。 

 

 山全体に太い横線のようにいくつかの木の盛り上がりを確認できます。

これは尾根ではないかと思います。

おそらくですが、七つの尾根説が正しいように思えます。

 このトンネルを抜けると護国神社があるのですが、トンネルに入ると

戻って来られなくなるような予感がしたので、ここで引き返しました。

 

                               ( 七尾山 と 地下道通路 出入口 )

 

                                   ( 地下通路の雪舟の絵 )

                                     ( 地下通路の雪舟の絵 )

                                     ( 地下通路の雪舟の絵 )

 

雪舟(せっしゅう) 雲谷庵跡 

 

 

 室町時代には数多くの水墨山水図が描かれました。

ほとんどは中国の風景がモデルであり実際には存在しない、

作者のこころの景色だったそうです。

 

                        国宝 天橋立図 雪舟筆 ( 京都国立博物館蔵 ) 

 

 しかし、この図は中国でも空想でもありません。

日本三景のひとつ、天橋立を東側から捉えています。

(ちなみに後のふたつは広島の宮島と宮城の松島です)

 

 80歳すぎの雪舟(1420-1506)が現地に赴き実際にある目の前の風景を

描いたことは驚くべきことです。

雪舟は子供のころから筆の才能があり、中国大陸に渡り大自然を写生したり、

宋元画を学び、禅画一致を求め一生涯描きつづけました。

この「天橋立図」(国宝)は最晩年の雪舟の傑作です。

 

 

 雪舟が実際に暮らしていた場所にあるのが雲谷庵です。

後の時代に有志により再建されました。

 

 

 

 建築部材として部分的に室町時代の建造物からの扉や柱などが使われています。

 

 

 

 

 室町時代の柱にじかに触れました。

柱は何も語らず、静かにじっとそのままでした。

 

 

 雪舟はこの雲谷庵で生涯を閉じました。

87歳でした。

 

 

 

湯田温泉駅 夜 

 のどかな山口市しか知りませんでしたが、隣の駅まで歩いてみました。

「湯田温泉駅」はこじんまりとした駅舎ですが、それに反して傍らには巨大な白キツネが

お座りしていました。

「なんでしょう? このキツネ・・」

 

 

 湯田温泉駅周辺は山陽路随一の温泉街であり繁華街です。

夜ともなると通りに きれいっぽい女性が立ち並び、道行く人に「こんばんは!」

と挨拶をしてくれます。 

とても礼儀正しい方たちです。

 

 開湯は約600年前といわれています。

白狐が毎夜権現山の麓のお寺の池に浸かっているところをお師匠さんが見つけました。

不思議に思い、その場所を調べてみると池の中から金色の薬師如来の像や、源泉が

湧出したのだそうです。

 

 現在では通りのあちらこちらに足湯を楽しめる場所が作られています。

夜の通りに沿った足湯の場所で多くの人が足湯を楽しんでいるのを見かけました。

サラリーマン風の方が普通に足湯をしているのです。

スーツのまま足湯をしている姿を初めて見ました。

ひょっとしたら現在でもキツネの子孫が足湯を楽しみに来ることがあるかもしれません。

 

 山口出張の最終日、予定通りに今回の仕事を無事に終えられました。

担当者は携帯電話を取り出し写真を撮ろうとしましたが、私が

「魂を抜かれるかも知れないので」言い断るとクスリと笑い携帯電話を

持つ手を下げました。 

「この後の作業も引き続きお願いします」と言い

「お世話になりました」と頭を下げると、担当者はちょっとシュンとして

うつむいていました。 

立ち上がろうとするので、「ここでいいですから!」と言いその場を離れました。

男性は情に厚いし、意外に涙もろいと思います。 

一日の多くの時間をずっと一緒にいてさんざん、頭を使い、苦労をしてひとつのものを

完成させました。

担当者の上司と本部の東京からの品質管理者のチェックを受けて私の仕事は終わりです。 

担当者は今、達成感をかみしめているはずです。

外に出ると、もう陽は傾きかけていました。

私はゆっくりと1歩1歩をかみしめるように歩き、ある場所に向かいました。

 

                                           ( 一の坂川 )

                                      ( 瑠璃光寺 山門 )

瑠璃光寺 五重塔 夜  

 

                              ( 瑠璃光寺 五重塔 )

 二十五代大内義弘(よしひろ)(1380-1399)の弟 盛見(もりはる)(1399-1431)

が兄の菩提を弔うために建立したものです。 

結局、山口滞在中にこの瑠璃光寺に合計3回訪れました。

陽のある時間帯に2回、夜に1回です。

なぜ、ここに来てしまうのか自分でもよくわかりませんでした。

 

                          ( 瑠璃光寺 五重塔 )

 

 この場所にくる度に「これが五重塔の見納めになるかも知れない」という気持ちが

湧いてきて、ちゃんと別れを告げてから東京に戻りたいという気持ちがあったのだと

思います。 何度見上げても、この五重塔を見飽きることはありませんでした。

 

 

 夕闇がせまり、周りの山々のみどりが段々と濃い色に変わっていくのが見て取れました。

「暗くなっていくなぁ」 

「五重塔も暗闇に呑み込まれてしまうのだろうか・・」

見上げていると屋根の下の細部をはじめ、真っ先に暗くなり見えなくなるであろう

部分がいつまで経ってもよく見えていました。

 

 

 「んっ!? 明るいなぁ」 私の背後を見ると・・「うおっ!?」

けっこう、大きめのライトが置かれてありました。

なんと、五重塔は夜になるとライトアップされるのです!

「ひょえーっ! 美しい!」

 

 立ち入り禁止の柵がなければ、きっと私は目の前の五重塔を

思いっきり抱きしめていたはずです。 

(すぐに変質者として通報されるのでしょう。 まぁ、いいか・・よくないか)

 

 五重塔は淡い光を受けて、闇の中でその美しい姿を浮かび上がらせています。

暗闇の中で五重塔とたった二人で対峙しているような感じになりました。

池の水面に映る五重塔もまた、美しいです。

 

 

 建造物を見て、生つばをごっくんしている自分に気付きました。

やはり、私は少しおかしいのでしょう。

でも、それほどまでに美しかったのです。

 

「菩提として弔う」言わばこれはお墓です。

お墓として弟は兄のために五重塔を建造しました。

時代の技術をすべてぶつけて培ってきた文化をひとつの形に残しました。

石に文字を刻むことなく、檜を使い誰の眼にも美しく映る芸術作品を

残しました。

大内氏の京をしのぐ文化を手にして時代の先駆者であろうとする

巨大なエネルギーを感じます。 

争いを続けて命を落としていく無常さの中で、大内氏はひとつ先の時代を

見据えていたのではないでしょうか。

敬愛する兄に対する最大の敬意であり。大内氏の強い意思表示でもあると思います。

大内氏の血を継ぐ者ならではの考えだと思います。

 

 

一の坂川 夜 ゲンジボタル 

 ゆーっくりと「一の坂川」沿いの道を歩きました。

今夜で山口とお別れです。

あと数時間すれば私はこの地を離れます。

また来ることが出来るのだろうか・・。

 

 

 闇は川の雰囲気を大きく変えていました。

小魚やカメ、カニ、ヘビもいた一の坂川です。

けれども今は何も見えません、水の流れが聞こえるだけです・・。

「んっ!?」  「あれは・・」 

川の両端から張り出した枝の葉の中でホワッ、ホワッと光るものが見えました。

ゲンジボタルです。  蛍が放つ2つの光が見えました。

 

 

 どこに蛍がいるのかわかりませんよね。

写真を後で確認したのですが・・私にもよくわかりません。

でも、本当に光っていたのです。 

ゲンジボタルはゆっくりと光を放ち、そして川面の上で光の明滅を続けていました。

 

 

 出張で山口に来て、この町の歴史に触れることが出来ました。

室町の時代の息吹を感じたような気がします。

日本の歴史を形作る人物たちが駆け抜けていきました。

たった500年ほど前の出来事です。

 

                                  ( 毛利元就 ) 

 

 滅亡した大内氏と関わりのある建造物に対して毛利氏が手厚く保護して

いた事を知りました。 

争いが起こり命を落としていく時代。

異文化を受け入れた革新的な時代。

誰もが共に平和に生きることなど困難な時代を突き進んだ室町時代。

この時代の記憶は現代に生きる者に何をもたらすのでしょうか。

日本が安黎な時代を迎えることができるのは、まだ先の事です。

 

 時代を超えて、五重塔は山口の地に建ち続けます。 

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。