疲れましたが、とても楽しい出張でした。
時間を見つけては行ける限り外に出て街をほっつき歩きました。
普段の生活の場にいないのです。
こんな面白いチャンスは滅多にありません。
見どころがたくさんあることを知りました。
もう、じっとしていられません。
そんな気持ちで日々 山口で過ごしていました。
今回の記事は私が山口市で巡った場所を記録しておきます。
これから、山口市に行かれる方、そして かつて行った方
何かしら、参考になったりすることがあるかもしれません。
(基本、私の備忘録です)
興味のない方はすっ飛ばしてください。
山口サビエル記念聖堂
とてもわかりやすい場所にあります。
観光地図で見ると山口駅から上(北西)にまっすぐです。
広い県道204号線から少し奥に入り、右に折れます。
ゆるやかに伸びた坂道を上ってゆきます。
左手から、子供たちの元気な声が響いてきました。
幼稚園のようです。
広場で遊ぶ子供たちの姿が見えました。
そこから10メートルも行かないうちに右手に大きく広がる空間が
見えてきます。
「サビエル記念聖堂」です。
真っ白な壁の建物に53メートルの2本の塔がそびえています。
建物全体をみると屋根のかたちはテントのように見えます。
このデザインのモチーフは
「神が私たちと一緒におられるしるしとして、教会の形をテントにし」
「二つの塔が天にのびることによってサビエルを記念するだけではなく、
現代の人々に神様のことを強く思いださせる形」を意識したのだそうです。
現在の建物は平成10年(1998年)に再建されたものです。
それまであった教会はフランシスコ・ザビエルの山口再訪400年を記念して
昭和27年(1952年)に建てられたものでした。
(画像お借りしています 旧サビエル記念聖堂 ロマネスク様式の重厚な教会です)
しかし、1991年9月5日 火事ですべてを消失してしまいました。
再建された聖堂は初代の面影がほとんどなく斬新なデザインになりました。
完成当初は市民から異論が出たそうですが、現在は憩いの場としても親しまれています。
(入館料100円で聖堂の中に入ることが出来ます。1Fには資料が展示されています)
(聖体顕示台 下部 左から 香炉 香入れ 灌水器)
(司式・ミサなどで使用される祭具 聖杯 聖体拝領の時に使用する蓋つきのチポリウム 聖皿)
(イエズス会修道会の創立者 イグナチオ・デ・ロヨラとリバテネイラ像)
(右上―クリスチャンの盃洗 右下―キリシタン鍔 左下―島原の乱で使用された大砲の弾)
聖フランシスコ・ザビエル(イエズス会創立会員1506-1552)という人物は多くの方が
ご存知のようにキリスト教(カトリック)を日本に伝えた方です。
(フランシスコ・ザビエル)
室町の時代、天文18年(1549年)に鹿児島からはじまります。
平戸、山口、堺、京都、山口、平戸、山口と渡り、1551年4月
フランシスコ・ザビエルが大内義隆(おおうちよしたか1507-1551)に
2度目の謁見で宣教の許しを得ます。
(スペイン ナバラ州政府寄贈のステンドグラス)
(左から通訳のBr.フェルナンデス フランシスコ・ザビエル 大内義隆 鹿児島の忍室)
その後、当時 廃寺となっていた大道寺を住居兼教会として拝受します。
1552年に大道寺の改築が行われ日本で初めてキリスト教会が誕生します。
南蛮寺です。 大道寺の改築は1555年に終わりますが、1556年杉氏と内藤氏の抗争によって
起きた火災により大道寺が消失、そして1557年には大内氏が滅亡します。
ザビエルの後任のトーレースもこの地を去り、教会としての活動は終わり、
やがてキリスト教禁教の時代を迎えます。
( 紫福(しぶき)の里でみつかったキリシタンの墓 )
大内義隆が統治していた時代、フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた信者がたくさんいました。
しかし、1557年 大内氏が滅亡すると毛利元就によるキリシタン弾圧が始まり、
信徒たちは仁保や紫福へ難を逃れて移住しました。
紫福は二つの山にはさまれた里でこの地で教えを守りながらひっそりと暮らしました。
この里で暮らす人たちは背後の鍋山のことを「至福の丘」と呼んでいたことから
至福(しふく) → 紫福(しぶき) となったのではないかと言われています。
( 踏み絵 )
真鍮製 裏面には寛文9年1669年 長崎奉行所の命により裕佐(ゆうすけ)
の造りしものなり 禁複製 と刻まれています。
つるつるになった表面のキリストの姿が見ていて痛々しかったです。
(聖堂 正面)
決して長くはない時間の中で精一杯生きた人たちがいて、混沌とした荒れる時代の中で
人々は恐怖を抱き、日常を生きていたのかもしれません。
その中で宗教というものに出会い、新しい自分の人生を描いたのかもしれません。
(聖堂の横にある小グループのお祈りやミサのために使用するスペース)
大道寺のあった正確な場所は不明です。
ただ、現在のサビエル記念聖堂の近くといわれてはいますが、1998年の発掘調査などでも
場所を特定することが出来なかったため、総合的には公園の敷地外である可能性が高いと考えられています。
(背後に置かれたパイプオルガン)
(聖堂内にいる間中 パイプオルガンの音楽が流れていました)
ピンポイントで同じ場所に立っていなくても、充分に歴史の舞台に身を置くことが
できました。
2017年に出張で大分に行きました。
駅前にメインで大友宗麟の像があり、フランシスコ・ザビエルの像も置かれてありました。
今回、山口でまたフランシスコ・ザビエルを描かれた絵を見て、
「また、歴史の地でお会い出来たんだなぁ」と思いました。
(フランシスコ・ザビエルの右手の指の聖骨が収められています)
科学的に過去に戻ることは出来なくても、歴史の舞台を訪れて想像力を最大限に
掻き立てれば、当時の様子をうかがい知ることが出来ます。
伝えられている細かな破片をつなぎ合わせていくと、くっきりとした輪郭を帯びた
形になることもあります。
それが歴史を辿る旅だと思います。
私の山口での歴史巡りは始まったばかりです。
この後、亀山公園、八坂神社、龍福寺、今八幡宮、野田神社、豊栄神社、
雲谷庵跡、七尾山トンネル、湯田温泉駅(夜)、瑠璃光寺五重塔(夜)、一の坂川(夜)
と続きます。
いったい、いつ仕事をしているんだというくらい名所旧跡を辿ることが出来ました。
気になっている方もいると思いますので書いておきます。
「フランシスコ・ザビエル」名前としては「ザ」ですが施設の名前は濁音ではなく
「サビエル記念聖堂」です。
サビエル記念聖堂に向かう坂道の途中にある幼稚園は
「山口天使幼稚園」といいます。
掲示板にここの卒園生の写真が貼られていました。
「あれっ、卓球選手の石川佳純さんだ!」ここの卒園生だったのですね。
「山口美人ですね!」
この幼稚園の子供たちは神に護られているはずです。
フランシスコ・ザビエルが来日してから470年になります。
どこかで、この子供たちの声を耳にしているかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。