作業を終えて、素早く帰り支度をしてエレベータに身をゆだねる。
1階と印されたボタンを押して、眼を閉じる。
「右か左、どっちだ?」
広いエントランスホールの壁には薄く切られた白い大理石が貼り付けられている。
「豪華さはあるが温かみがない」 毎回この場所を通るたびに思う。
分厚いガラスの自動ドアが開く。
と同時に外の音が耳に入り、全身が現実に包み込まれる。
まぶしい。
道路を行き交う車輛の音、外人女性が連れた犬、足早に横断歩道を渡るスーツ姿の男性。
みなの始まったばかりの一日が眼に入ってくる。
「いったん 帰ろう シャワーを浴びて少し休んで、また戻ってくれば今日中になんとか
区切りはつけられるだろう」
この玄関を出て右に向かうと、渋谷のスクランブル交差点方向になる。
井の頭線を使うならばこの方向だ。
左に向かえば井の頭通りを歩いて帰るか、小田急線を利用するかどちらかになる。
私は左を選らんだ。
渋谷の駅までには歩くとそこそこ時間がかかる。
それに人が多い通りは歩いていると疲れる。
早朝の時間帯なので人はまばらだろうが、夜に遊んでいた人たちの散乱させた空き缶や
ゴミを見たいとは思わない。
左に向かいしばらく歩く。
30メートルほど先にある信号の場所に着くまでにその先からの方向を選択すればいい。
「歩き」を選択するならば<まっすぐ>だ。
「電車」ならばこの交差点を右に向かうことになる。
どっちだ。 「疲れている また戻るのだ。 電車だ。」
始発からまだ数本目の車内はどの車両も乗客がまばらだ。
座席に座り、一度 眼を閉じる。
眠ってしまわないように、携帯端末を手にして画面を見入る。
降車駅のすぐ近くには公園がある。
大きな木々もあるし露出した地面も多い。
そのせいだろうか、近くに来ると半袖の腕がひんやりとした。
白いシャツ、白いパンツ姿の年配の方々が歩いている。
みな お揃いのスポーツウェアのように見えた。
軽い足取りで石段を上がっていく。
後姿に気品がある。
「元気があっていいな」
公園でのラジオ体操に参加する人たちだ。
上下白色の服装はかなり、主張がある。
「私は健全、健康、まっとうな市民です」と言っているように感じる。
そうであることに越したことはない。 私は白い服、白いズボンは身に着けない。
「疲れたな。 なんで毎回こんなことになるのだろう。」
「仕事として向き合う対象は変われど作業内容はいつも似たりよったりだ」
「これで生計を立ててきた。 自分の好きな世界に身を置いている」
「幸せなことなのだと思う。 仕事があるのだから。」
ゆるい坂道を登りながら、様々なことに思いをめぐらす。
私は歩きながら考える。
今までもずっと、そうしてきた。
でも、そうして考える時の答えはいつもみつからない。
坂道を下りかけたところで、私はあることに気がついた。
今まで、見えていなかったものが見えている。
この道は明るい時間帯はあまり使わない。
使う時は、ほとんどが深夜の時間帯になる。
所々に街灯はあるが、道路の狭い範囲だけをぼんやりと照らし出しているだけである。
「薄い闇の住宅街」という認識だった。
私が眼を向けた場所にあるのは保育園だ。
この場所に保育園があることは何年も前から知っていた。
けれども、その事に全く気がついていなかった。
今までは薄暗い中でこの場所を通過していた。
見えていなかった。
そうか、こんなものがあったのか・・。
私はひとつひとつに眼を通した。
小さなタイルを上手に使い、カラフルに動物や果物、昆虫などが描かれていた。
「作っている時は大変だったろうか。 楽しかったろうか。」
小さい子が真面目な顔をして、小さなタイルを持っている様子を感じる。
にぎやかな教室の中での笑い声も聞こえてきそうだ。
「先生も苦労したかもしれない。 それにしても教育方針がいい。」
「この子たちは、その後 この場所に何度も足を運んだことだろう。」
ゾウさん、キリンさん、ロケット。
子供たちが当時 興味を持っていたものが形にされている。
それは自由に思い描いた夢なのかもしれない。
すべては純粋無垢なこころで描かれているみごとな作品だ。
平成19年度 卒園制作と書かれている。
6歳の子供たちの作品ということになる。
今は平成29年だ。 10年前のものなのか。
子供たちは成長して、高校生になっているはずだ。
自分の進路を決める大事な時期になっている。
どんな大人になってゆくだろう。
十年前にこの場所で過ごした子供たちの時間が明確に刻まれている。
そして、作品完成から10年後に疲れた大人がその作品に眼を向け
感心し、癒されている。
ちょっと遅れて子供たちからのメッセージを、今 受け取っている。
文字は私よりも上手だ。 先生が書いたのだろうか。
私の身体の中にある、疲れてドロドロした何かが浄化されていくように思えた。
深く息を吸い込む。
なんて、気持ちがよくて 清々しい朝なのだろう。
「今日はいい日になるな。」
立ち止まっていた私は、新たな気持ちで 一歩を踏み出した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。