嫌いだから知りたい
年末の嫌な経験を払拭したいので、危険とは思いつつ。
ブログに対して色々思うところはあるのですが、今のところまだ答えが出ないので
しばらくは同じように続けるつもりです。
今日は巷で流行りの(そうか?)説教族について。
思うままに分類してみようと思います。
考えながら書いて、修正したり整理したいので後々変更箇所も出ると思いますが、今は適当に。
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○おせっかい系(指導的、画一愛情的)自覚・無自覚に分かれる
「どうしたらいいのかな?どうしよう、困ったなあ」など悩み・混乱系に反応
部活で伸び悩む⇒ぼやく⇒自分が成功した、もしくは周囲ほんの何名かが成功したことを教える⇒
それは自分に向いていないと告げる⇒怒る
恋愛関係の悩みを話す⇒自分の恋愛観を語る⇒そうではない人もいると話す⇒怒る
または精神論の結論へ移行。
・やればできる、愛が全て、等の善語的無責任さを委ねる。
○攻撃系(指摘注進的、優位性保持的、群集指導的)自覚・無自覚に分かれる
ある定義上における違反などを見つけたとき、または情緒的に極端の感情に反応、
関係性の主従が著しく損なわれた際に反応
ゴミの分別を間違う⇒怒る
交通マナーの認識の違い⇒怒る
助けを必要としていると判断⇒自分なりの助けをしてあげる⇒受け入れられない⇒怒る
偏った思想⇒矯正したい⇒怒る
足並みが揃わない⇒怒る
・常識がない、思いやりがない、思いやりを受け取らない、などの捨て台詞が聞かれる。
○慣習保持系(指導的、自己愛保持的)自覚・無自覚に分かれる
親に逆らう、年長者に逆らう、指導者に逆らう、ルールを重んじない、自分を重んじない際に反応
○○家のルールにそぐわない嫁⇒怒る
学校のルールにそぐわない⇒怒る
宗教的倫理にそぐわない⇒怒る
曖昧さを破壊する言動⇒怒る
・年功序列、男尊女卑等にも見られる選民思想、上下思想が強い。
私が主に辟易し、混乱させられるのは2番目と3番目でしょうか。
不思議と1番目のタイプの人は私のようなタイプを避けるようです。
多分言葉尻がきつい、紋きり口調なため攻撃的とみなされてのことではないかと推測しているのですが。
当たっているのでこのまま是非避け続けていただければ、お互い無益な傷が増えない気がします。
私は嫌なことを嫌と言えずに我慢したことを後々ぶちまけられるのは大嫌いです。
攻撃系の説教族はこれがものすごく多い気がするのですが、いかがでしょう。
このタイプの人を私はこんなイメージで捉えています。
溌剌として見える、押しが強い、面倒見が良い、気が強い、はっきりものを言う、
しかし個人としての自己価値、価値観はほとんどない。価値は全て相対的なものとして保持している。
そしてそのイメージは演出であり、本質的な性質ではない。
もしくは後天的に作られた一面である。
※あくまでも私の一私見でしかありませんし、多面のうちの一面でしかないですが。
私はどちらかと言うと資質的にこの2番の攻撃系の説教族に被るところが多いので
初めは仲間として見られることが多いように感じます。
ほとんどの人がこの3つの中に含まれる資質というのは持ってはいるのではないかと思いますが、
説教族になるには欠かせないことは他にあり、
固執していないつもりでも、ある一定のルールや定義しか正しさはないと思っている。
そしてそれは全ての人が守るべきである、または認識すべきである、と思っている。
結果、それを押し付ける。
これが説教族への別れ道ではないかと思っています。
異文化との交流は楽しく、新たな発見が多く、学ぶこともあり素敵です。
それをしていきたいと思う。
だけど、説教族とは相容れなくていいです。
説教族とだけは異文化交流などくそくらえです。異文化としてお互い住み分けたい。
住み分けが出来ない説教族は滅んで欲しいです。
ふー、考えただけでイラつきます。思い出しムカつき。
この話題は消耗しそうなので、ちょびっとずつ小出しで行こうかと。
そのうちただの愚痴に変わるかもしれませんがお許しを。勘弁してつかあさい。
2006年1月11日(水)PM:8:40に上げた記事です。
定義として付け加えます。
●親はまた別である。親子には親子の別の定義がある。
で、とにかくこれだけはしつこく言いますが、これらは他者評価軸ではありません。自己概念であります。
それと、資質を持つことと、資質を持ちつつその矛盾検証や自己対決をしている人は
説教族ではありません。
0(何もない)と1(1つある)の差と同じくらいかけ離れていると思っています。
それぞれの資質の中にある怒りは、多少の差はあれど持っているのが人間なのではないかと思います。
多くの人はその線引きラインの違いはあっても、そういった種類の怒りを感じたときに
同時に「でもこれは自分勝手な言い分かもしれない」とか「待てよ、認識の違いなだけかもしれない」とか
考えたり、そうでなかったとしても「それを押し付けるのはエゴだよな」
と自己反省の思考も発生していると思うのです。無意識だとしても。
ところがそんな相反する、というか二律背反な気持ちに背を向け、他者を攻撃し強制することだけを
善とし、反面の意識を正当化して他者にぶつけるのが説教族だと私は思っています。
この記事、読み返してみると意欲が湧きます。もうちょっとこういう形で分類したり研究したいぞ。
いつもみたいに考えていることをだらだら書くんじゃなくて。