もう30日なのに | ☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆

もう30日なのに

中途半端に今年の終わりを迎えそうです。
なにか楽しいことを書いて、思うところなく一年を終えたかったはずなのですが。
つくづく、自分の文章力のなさにがっかり。

こだわってずっと考えているわりに、自分の中でも矛盾と感情を処理できていないせいだと思いますが
どうも、人が私に示してくれる思いやりに難癖をつけているかのような
思いやりとはこういうものだ、というか
おまえの思いやりは間違っているというような文章に読めるのでしょうか。
うまく自分の持つ疑問が形になっていないのは確かなようです。

もう一回チャレンジしてみます。
まず疑問に思った経緯をかいつまんで(かいつまむからわかりにくいのだろうか)書いてみます。
以前、知り合った方で会うたびに何故か生い立ちを聞かれ、それに答えられる範囲でと
言ったうえで答えていたのですが、そこから私の精神分析をされます。
亡くした親への気持ち、親子の関係性、異性への対峙の仕方、愛を持つ事物への対峙の仕方
それらを大切にするその仕方、かなり色々な部分に及びましたが
私はそれをごく簡単に、答えられる範囲で答えた内容だけでそうと言い切れはしないし
少ない情報でそれをしないで欲しいと言ったところ
「思いやって言っているのに、プレゼントをつき返すような態度はひどい」
と言われました。

正直言ってとてもショックでした。
精神科医でもなければ、心理士でもなく、悩みを相談しているわけでもなかったですから。
思いやりを持って慈愛に満ちた気持ちを突き返したつもりは全くありませんでした。
そのことがあってから彼とは段々と会わなくなりました。
それを言われた日から、その言葉が心に残り、ずっとひっかかります。
私はそんなにひどいことをしてしまったんだろうかと悩みました。
そこから「思いやり」って何だろうと思い、相互にそれが価値あるという前提でしか
成り立たないのか、心をこめて相手のためという前提ならばそれは成り立つものなのか
考えるようになりました。

受け取る相手がどう思うかは千差万別です。
それを全て知ることは出来ないし、全て共通とは限らない。
ただ、だからといってそれをしない、ということではないです。
それはそれとして自分の中で続けていくけれど
その前に投げようとしている、この手に持っているものでいいのだろうか、ということ。
そこに注目しているのです。
目の前に立つ可能性のある人がどう思うか、よりも先に
投げるそのものを自分は本当に納得のうえで投げているのかが気になるのです。

それを考えていると「思いやり」って何だろうという疑問は当然出てきます。
出てきて、それは受け取る人がどう思うかを考えているように見えるかもしれませんが
受け取ることが前提ではないのです。
私は比較的出されたものを喜んで受け取るほうではないかと思っています。
喜ぶこと、誉めること、好きになることが好きなのです。
それが物であると仮定して、仮にいらないものでも喜ぶ顔は出来ます。
でも本当にそれは喜んでいるのではない(私の場合は)

ぬいぐるみが嫌いなので大きなぬいぐるみをプレゼントにもらったらすごく嫌です。
だけど「はい、プレゼント」と言われて「いらない」とは言えません。
ありがとう、と受け取りますがビニールに入れてクローゼットに押し込んでしまいます。
そのときとても罪悪感を感じるのです。
「こんな風に受け取ってよかったのかな」
だからこそ、投げる側の心持ちとして相手が「いらない」と言える形を、
そして自分が納得出来る形を見出したい。

それまでそれほど「思いやり」を特別考えたことはありませんでした。
なんとなく、本当になんとなく「こうした方がいいかな」とか
「こうしたら喜ぶかな」を前提として、それも相手の感じる「いいこと」「喜び」を
自分が感じる範囲で想像しただけです。
相手の立場に立つ、それすらきちんと意識して考えたことはありません。
答えが出ない今は、私は思いやりのない人間と自分のことを考えています。

自分が嫌なことはしないように努めていますが、相手がそれを嫌かどうかはわかりません。
もしも「嫌」と言われたら、申し訳ないと思うし、なんとか償いたいと思います。
ただし、思想については別です。私が私の頭の中で考えていることを文章にし
それを読んで「嫌」と言われても、そうか、嫌なんだ、と「知る」にとどまってしまいます。
それはエゴイスティックかもしれませんが、それは仕方ありません。

私は私のためにしか生きられません。
だからと言って、そのほかの出来ることを放棄するわけではないです。
考えうること、出来る限りのことはしようと思っています。
でもそれをしているからといって、そこで終わると
投げる側としての自分の納得のいく形にはなっていないな、と思っているのです。

ふー、全然ちゃんと書けない。
えらいこと書いてもうた。


※※※※※

追加します。この前の記事にいただいたTB先でした自分のコメント(一部修正)です。
ひょっとしてこれが一番わかりやすいかもしれないと思ったので。

「思いやり」ってなんだと思いますか?と疑問を投げているのではなく
相手が望みもしないお説教をして「あなたのためを思っているのよ」というのを、
「くれる気持ち」に重点を置いて感謝するのが難しいと感じているので、
自分はどうだろう、という自問なのです。

私は望みもしないことをして「思いやりでやっているのよ」と正当化してはいないだろうか、
私にとって思いやりとはなんだろう、というところから始まり、
やっとこのあたりまで辿りついたところです。
まだ途中なので自分が本当のところどう考えているのかすらわかっていない部分も内包していますが、
受け手の心持ちではなくて、投げ手の心持ちのことなのです。
好意を迷惑とは、言えないからこそ投げることに疑問を持ったのです。

「思いやってあげている」と言う人の中では「思いやり」って何なんだろうと思うのです。
あまりの違いに、それ以来投げる自分に自信が持てず、
自分が思いやりを持てない人間になっているので、考えつづけているのです。

※※※※※

TB先の記事に対しての記述やコメントを受けての部分を一部削除したり、修正しました。





2005年12月30日(金)PM:9:25に上げた記事です。

相対的でしか発生しないことを考えるのは大変です。
自分の中で納得したこと、美しいと思うことがすなわち正解ではない。
正解などというものはきっとなく、それでもそうしたいと自分が思っているということなのだと思います。

もう本当に何回も言いますが誰かに対して
「あなたの思いやりは本当に思いやりですか?」「あなたは思いやることが出来ますか?」と
問うているわけではありません。
これら一連の文章を読んで、そう思わせてしまったら本当に申し訳ないです。