「芋」についてもう少し | ☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆

「芋」についてもう少し

ドラえもんを生み出す芋。
なんのことだかさっぱりわかりませんね。
もっと抽象的に例を出して例えると、とっつきやすく、わかりやすいのかもしれません。
が。これを例を出して例え、抽象的にぼかしていると、途端に嫌われます。
その良い例が「平気でうそをつく人たち」の本のエピソードです。
なので出来るだけ、ストレートに書いてみようと思います。

ドラえもん=他者をスケープゴートする行為
芋=自己の完全像を守るために他者をスケープゴートしようとするメカニズム

現在、私の中ではこういう風に位置づけられています。

何故、このテーマは嫌われるか。
それはきっと誰の中にもあり、日々行われ、瑣末で、かつ抽象的な、部分、部分に
巧妙に組み込まれていることで、蓄積され、少しづつ蝕むことだからでしょう。
この「芋」はきっと、どの人の中にも棲んでいて、自然とそれを叩き、戒め
生きられる人もいれば、この「芋」に支配されきってしまう人もいる。
「芋」に気付き苦しんでいる最中の人もいれば、気付いても苦しまぬ人もいる。
全ての中間の人もいれば、様々な形があります。

何がどうなったら、「良い」のかはわかりませんし、それは定義しない方が良いような気がします。
定義すれば、それは結局マジョリティーであるかマイノリティーであるかにわかれますし
マイノリティーが「悪い」に属されてしまう可能性が高く
そうなれば、そこにまた新たな論点が生まれ、ただただ少数派を圧迫していくだけだと思うので。
一つ一つの違いを楽しんで生きていきたいし。

ただ、私は私の中にいる「芋」が暴走し、私を支配するのは許せない。それだけのことです。
そう思うことすら違う、と感じる人もいるでしょう。
そのどちらが良いか悪いかということを言いたいのではありません。
どちらに転んでも、自分が選ぶ、ということを言いたいのです。
そしてそれは必ずしも大多数の意見を取り入れなくとも良いことだと思っています。
感じるのは自分でしかないですから。

例を上げるのなら、自分がいいでしょう。
数日前、私がよくお邪魔するブログで「頭の良い人」について書いてありました。
対比したものも書いてありました。

上の文章を読むと、頭の良い人についてのみ書いてあるようですが
実際の文章は、一つ大きなテーマがあり、それはまた別のことなのですが
対比したもの、を簡潔に表せば「バカ」になるのかな。
対比したもの、にどちらかと言えばかなり近い私は
読んだ後に注目していたのは、頭の良い、悪い、についてでした。
しかも一般的、もしくは自分の定義するところの、良い、悪いではなく
自分が「良い」か「悪い」か、です。

ここに一つ「芋」が生まれる土壌があります。

上手く書けるかな、ちょっと頑張ってみます。
私の思う「頭が良い」と、その方の思う「頭が良い」は違います。
私の思う「バカ」と、その方の思う「バカ」は違います。
そして私は「頭の良い人」が好きか嫌いかと言えば、好きではなく
「頭の良い人」になりたいか、なりたくないか、と言えばどうでも良い。
これは大前提であります。
なのに。
その方が書いた「バカ」に見える条件をあげた方に自分を投影しています。
それは、虚栄心やナルシシズムに支配された
他者に認められ敬われること、への欲求が為したのでしょう。

ここで、その文章を読み、虚栄心やナルシシズムに支配された場合の頭の中で変換されたら
「あんたバカみたいに見えるよ」
なんだと!むきー!じゃああんたは何なのさ!となります。
これを実際に私が意識できるレベルで思考したか、と言えば
そんなことはなかったのですが、無意識レベルでは、ないとは言えません。
あったから同一視したのでしょう。

しかし、現実には誰もそんなことは書いていません。
その方にはその方の、私には私の、形があります。
そして、自分がいつも書いているように文章は常に誰かに語りかけていると
決まっている代物ではないのです。
ただ、思うことを書いている、自分で自分に語りかけている、様々な形があります。
わかっているのにそれはストレートに同一視させる何かに入り込みます。
ここまでは、私の場合あってよいことです。
自分に「何故?」と問うことの出来る場所であり、思考だからです。

しかし「芋」に支配されているとしたら、これを論じて叩き潰さねば気が治まらないでしょう。
人に認めさせることでしか、自己の完全像は守れませんから。
上に書いたように、頭の中で起きた「自己を他者によって否定されたと勘違いする変換方法」しか
知らなかったら即「なんだと!むきー!じゃあ…」と続くでしょう。
そうなったら、他者の思考を捻じ曲げてでも自己の思想に変換することに没頭してしまいます。

違うものは違う。それは曲げられるものではないのです。
それを何度も、強く、正論に聞こえる言葉で、曲げようとすることで
曲げられそうになった人は深く傷つきスポイルされ心を閉ざしてしまいます。
そんなことこそあってはならないと思うのです。
違いを感じ「何故?」と問う、会話する、結果としては違うまま終わる、表現が違うだけだった、
発想方法を変えることによる答えの改め、これらは傷つくこともありますがスポイルはされません。
むしろ理解は進むのではないかと思います。違いを受け入れていますから。

私の思考を例えにとって、文章を書いたのですが、これを読んで
そう感じた文章、というものに注目する方もいると思いますが
文章自体には何ら問題もなく、決め付けも、押し付けもそこにはなく、その方自身も素敵な方です。
好きでよくお邪魔させていただいているのですから、その他の文章も素敵です。
そこから様々なものを見出して、糧にしていますので、その辺は誤解されると困ってしまいます。

素敵じゃない人の文章は何度も見にいけません。





2005年8月24日(水)PM:3:24に上げた記事です。

うん、なかなか良く書けています。と自画自賛。たまにはいいべ。
この記事は思考の流れやスタイルがよく出ていて自分では満足のいく文章です。
今読んでも「そういうこと」と完結できます。
成長過程の文章だと追記が長くなりますが、ある種の完結を迎えた文章には追記があまりないです。
細かく揚げ足をとりながら、重箱の隅をつつけば色々あるんですが。