説教強盗
何かについて、書きたいと思った日から日が経ち、時期を逸すると
改めて迷いと、自信のなさが出てきます。
自信のなさ、というのは私自身の内面的な問題で、時々こういうことは起こります。
何故か突然何もかもが全て意味のないことで、自分がしていることが
人を決定的に傷つけたり、損なうことがあるのでは、と根拠もなく危惧し、ふらふらします。
ただ、私は誰に非難されても私でしかないのだし、その私ときたら
こういう形でしか前には進めないのだから仕方がない、とも思っています。
説教強盗とは、銀座のクラブなどで、お姉さまに説教などをたれてしまうオジサマのことを
言うのだそうですが、最近ブログの世界でも説教強盗の話を耳にします。
ブログの世界ではオジサマと言わず、様々な形の強盗が現われるらしいのですが。
さてさて。強盗さんは一体何が目的なのでしょうか。
初め、私はchargeupさんのブログと出会い、あまりにも共感することが多く
そして一番疑問に思っていたことに繋がることが多かったので
「アスペルガー症候群」という障害について理解したら
何かヒントに繋がるのではないかと思っていました。
しかしあちこち読み進めるうち、他のアスペルガーかもしれない方のコメントなども
読ませていただき、後々それには疑問を抱きました。
他のアスペルガーの方には共感出来ないことも多いのです。
これは衝撃でした。
それじゃ理解したい、と感じたのは「個人」のことだったのだろうか。
これは今まだ答えは出ていません。よくわからないのです。
それとは別として、chargeupさんには好意を持ち、理解もしたいと思いましたが。
前に記事に書いたように、個人への理解(好意)なくして障害のある状態、
もしくは病である状態を理解することは出来ないのだろうか?
大きな疑問です。
私は好き嫌いに左右される人間です。
私は多分ほとんどのことを「好き嫌い」で判断し、それによって様々なことを決めています。
こういう人って嫌われるんですよね。何故か。感情的だし。
その感情的さ加減を人にぶつけたりはしませんが、見ているだけで不愉快な人もいます。
そんな自分に嫌気が差すことも結構あります。
でもこういう風にしか生きられない時期なのだ、と思っています。
いつか、何に対峙しても、怒りや憎しみ、後悔や悲しみ、苦しみや辛さを感じることなく
常に冷静で心安らかな人になれるものかもしれません。
恥ずかしいけれど、私は今実際になれてはいない。
けれど、それは我慢や忍耐の上だけに成り立つものではないと思っている以上
成り立つものを探したい。
どのみち「好き」だの「嫌い」だのという感情は勝手に、私に何の断りもなく生まれます。
それを押さえつけ、抑圧してしまうことが人生修行だと思えません。
そんなことが努力なら、やっぱり私は努力なんか大嫌いです。くそくらえです。下品ですね。
その気持ちは私自身のものでしかないですから、やり方や考えも
私自身にしか有効ではないかもしれませんし、私自身にすら有効かどうかもわかりません。
どんな答えに行き着くのかもわかりません。
そこから何か生まれるかどうかもわかりません。
今のところ頭の悪い私にはそれしか思いつかず、一番合っていると思うからそうするだけです。
どんなに感情的になっても、好き嫌いでしか判断できなくても
誰かを否定したり、何かを決め付けたり、押し付けたりしないで生きることは可能です。
それだけはなんとしてもしたくないのです。
もしやってしまったら、撤回し、謝るまでです。それしか出来ません。
そこは努力します。だってそういう人間になりたくないのですもの。
説教強盗は、否定し、決め付け、押し付けます。
それらを司るものが「芋」です。
芋とは、すなわち、自分の心のうちに棲む鬼だったり悪魔だったりと言われるもの
邪悪性と向き合えないこと。
邪悪性とは、自己の完全像を守るために人を貶めプライドを保つこと。
スケープゴートを日常的にやっているのだと思うのです。
自分の自尊心を守るために、他者を貶め、犠牲にし、我が身を保つ。
なりたい。やりたい。欲しい。そういう気持ちと自分が努力すること。
はかりにかけて、どちらがより強いかを知る。
それだけが私にとっての、向かう先を決める手立てです。
それはそんなにいけないことなのでしょうか?
真理は自分の中にしかない。
そして悪も自分の中にしかない。
どちらにも向き合えばそれでいいじゃないか。
そう思っています。
結局、自分自身の感情を完璧に負担なくコントロールすることなど
私には出来ませんし、それをしようとすれば心を荒ませ、更にそれが成長を止めることへ繋がります。
ならば他の道を探すまでです。
私は私の人生を生きているのですから、内面から出る感謝と内面から出る自己反省をするだけです。
自分以外の世間一般とかいう価値観に振り回されて生きていきたくないのです。
説教強盗にあれやこれや、強盗の保身のための言葉を投げかけられたくはないのです。
そこはハッキリ拒否したい。
自分の弱さは他人を貶めてもレベルアップしませんよ、きっと。
ごく最近、現実世界で、邪悪なものに、生きてきた全てを拒絶され否定されたばかりの私には
形や目線を変えることは今は出来そうにありません。
一つだけ言えるのは、自分以外の誰かを否定も非難もしない。
しているのは自己否定と自己非難、そして私の頭の整理です。
じゃあ記事にするな、と言われればそれまでですが、したいんだもん。
これがきちんと形になれば、また一歩踏み出せる気がします。
読んでくださったかた、ありがとう。
そしてごめんなさい。
ただの私の心の中の叫びだと思ってくだされば幸いです。
わめいて、疲れました。暑い…。コロボックルは知恵熱が出そうです。
今日たった今このブログは王様の耳はロバの耳を叫ぶ穴として機能しています。
2005年8月24日(水)AM:0:51に上げた記事です。
どうでもいいことですが、心書庫のカテゴリが都市伝説です。
改めて自分で見て爆笑。バカだよ。
この時からずっと考えていますが、私が理解したいのは「アスペルガー症候群」ではなく
アスペルガー症候群と診断されたchargeupさん、なのかなと思いました。
つまり個人的なアスペルガー症候群をも包括するchargeupさんという存在が魅力的なのです。
それと後に気付いたのですが、自己否定や自己非難が必要なのではなく
「自己対決」が必要なのですね。「自己対決」なくして成熟はありえない。
そして成熟とは「理性」を育てるものではない。
犯罪者や快楽的な人ではなく、「理性」を育てることがどうしても難しい人もいます。
それでもその人は「人」であり、尊厳を必要としています。
本能が司る感情や感覚は、とても強いものです。そしてそれは非常に大切なものです。人の礎と言える。
それをないがしろにし、きちんと目を向けなければ「平気でうそをつく人たち」まっしぐらです。
さらに、色々と思考するうちセルフ・エスティームという概念に行き当たります。
これに該当する言葉は、日本語にはないようです。強いて言えば「自尊感情」だと言われます。
と、同時に日本人はこのセルフ・エスティームがない、または非常に少ないと言われます。
つまり、相対的な価値基準、相対的な評価によって自己を保っているということです。
自己がなんの努力もなく、生まれたままの否定要素を含むままの自己を
自分で受け入れ、それでよい。と心から思えない人が非常に多いということです。
後々このテーマはまた改めて記事にしたいです。